7月5日:唯我独断的読書評~『魔と呪術』

7月5日(木):唯我独断的読書評~『魔と呪術』

 魔術や呪術にも僕は興味がある。時々、その種の本を読みたくなる。このテーマは人類学や民俗学的な方面と考古学的な方面とから研究されることが多いが、本書は考古学寄りである。

 最初期の人類にとって、自然現象は脅威であり、彼らはそこに何者かの意図を感じ取っていた。それが「魔」と称されるものである。さらに、生、病、死など、人間にとって避けることのできない苦しみもすべて魔となった。

 人々は、これらの魔に対抗する手段として、神を発明し、神と人類をつなぐ呪術師を生み出した。著者は言う。「呪術は魔に対抗するための神の意志であり、呪術師は魔を屈服させる力を持つ選ばれた者であった」と。ちなみに、あらゆる分野の医師とかセラピストの原点は呪術師にあると僕は思う。これを忘れている専門家も多いことと思う。

 文明は魔に対する対処として生まれてきたものが多い。それに関する遺物なども多い。一方で、魔に対してただ恐れ慄くだけでなく、また対抗手段としての神を設定するだけでなく、魔を尊び、信仰の対象とすることで魔の怒りを鎮めようとする動きも始まる。神も魔も信仰の対象になるわけだが、その起源は一つである。

 さて、時代はもっと後になって、西欧の白人たちが世界を支配していくようになる。そこにいる先住民族たち(主に黒人たちだが)は、人間とはみなされず、奴隷とされてしまう。アメリカやアフリカの先住民族にとって、白人こそ魔だったのだ。これまでの魔が自然現象などであったのに対し、いまや人間が魔となったのだ。それはブラジルでも同じことであった。

 ブラジルの黒人たちは、白人たちに支配され、迫害されていく中で、魔(白人)に対する儀式を生み出していく。サンバはその一つである。もう一つはマクンバ(呪殺)である。呪術は神と人間の仲介になるものではなく、他の人間に対して用いられる武器になってしまうのである。

 インダス文明にエジプト文明の時代、もう少し後のマヤ文明と、そこには素朴で平和な世界があったのではないかと僕は思う。僕に懐古趣味があるのも、それと関係する。本書でも言及されているが、当時の人々の武器は殺傷能力をほとんど持たないものであったらしい。動物に対しては使用できても、対人間には不向きな武器だったそうである。彼らは本来人間とは争わなかったのではないかと思う。確かに、他民族を支配するなどの争いはあったが、武力の優劣よりも、呪術の優劣の方が要因としては大きかったと思う。つまり、優れた神を持ち、優れた呪術師(治療者)を抱える民族が強かったのだ。核を持つか否かで決まる現代よりもどれほど人間的な社会だっただろうと僕は思う。

 さて、本書はたくさんの写真が掲載されていて、本文を読まなくとも、そうした写真を眺めているだけでも十分に楽しい一冊になっている。古代の遺跡や発掘品、さらには宗教儀礼など、現代の目からすると理解不能に見えるかもしれないが、ただそう見えるだけであって、根本として人間であることは変わりがない。古代民族たちも恐怖に対して対処してきたのであり、それは現代人と変わらないものである。

 魔を恐れるが故に魔を崇め尊ぶという逆説もなんの違和感なく理解できる。現代の我々もそういうことをやっているのである。

 著者の鈴木一郎さんという人は日本民族学学会員であり、サンパウロ大学の客員教授とのことらしい。40年前の本の著者略歴だから、現在は違うのだろう。でも、写真もすべて著者が撮影したものであり、幾度となく現地に足を運んだ熱心な研究者という印象を僕は受けている。

 本書の唯我独断的評価は、4つ星だ。もっといろんな写真を見たかったし、いろんな話を著者から聞きたいと思う。どこか物足りなさが残ってしまった。

<テキスト>

『魔と呪術』(鈴木一郎 著)平凡社カラー新書91(1978年)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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