6月25日:活動について

6月25日(月):活動について

 地震から一週間ということで、ニュースでもやっていたが、今も避難生活をしている被災者がたくさんおられるそうだ。一日も早い復旧を願う次第である。

 僕の方はと言うと、ごくごく普通の生活に戻っている。被害が小さかったことと、強迫的なまでに日常を戻そうとしていたのが良かったのかもしれない。僕は人生が中断してしまうことに耐えられない。

 さて、今週は何かと忙しい。月末ということもあって、いろんな業務や予定が目白押しである。一週間で、つまり今月内で、終わらせるものは終わらせるつもりだ。

 このブログを読んでくれている人の中には、僕が意外にも活動的であると思っている人もあるようだ。僕は自分ではそうは思わないのだけど、ただ、やること、やらなければならないこと、やりたいと思うこと、などが後から後から生まれてくるのだ。単にそれらに駆り立てられているだけのような感じだ。感情抜きで、ただ、それらをこなしていくことしか考えていないこともある。

 それに活動という概念はとかく誤解されがちである。例えば、引きこもりの人がいるとしよう。この人は周囲の人から見ると活動していないように見える。決してそんなことはないのだ。彼らは彼らなりの活動があるものだ。

 また、躁的な人は滅多やたらと活動をするが、それが活動的であるかどうかは不確かなことである。

 つまり、人が生きていればそれなりの活動が生まれるものである。その人が活動的であるかどうかは活動の量では測りきれないものがあると僕は思う。活動の量とは別にもう一つの次元が要されると思っている。

 それは何かというと、統一性という次元だ。それらの諸活動が統一的、統合的になされているか、それとも解体的になされているかという視点が必要なのだ。躁的な人を例にするとこのことは分かりやすいのだが、こういう人はやたらと活動するけど、その活動は中心がなく、意識を過ぎった事柄に流されていくので、統合されていないのだ。引きこもりの人の活動も、それが何かに発展することもなく、ほとんど暇つぶしのような意味しかない活動であれば、統一的な活動とは言えないわけだ。

 僕が活動する時には、できるだけ統一的なものになるように心がるつもりではいるが、自分ではなかなかそのようになっていないのを自覚する。直近の予定やなんかで流されてしまう自分も感じられている。

 また、今日のクライアントのように、僕の中で緊張が漲るというような人が来られる場合、前日辺りから物事に手がつかなくなるといった状態に陥ることもある。

 そんなことが重なると、いろんなことが後回しにされてしまい、時には慌てて取り返そうとし、時にはそのままウヤムヤになってしまう。とても統一的とは言えない。

 明日は動画広告の撮影がある。この室内を少しばかりきちんとして、見栄えを良くしておかなければならない。朝からそれに取り組んだけど、キリがないと気づき、夕方には投げ出していた。

 こういう時、いつも思うのだ。毎回、その都度、きちんとやっておけばよかった、と。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

関連記事

PAGE TOP