3月27日(火):削除
今日は定休日だけど、職場に出る予定をしていた。当初は面接の予約も入っていたのだが、クライアントが体調不良ということで変更となっている。だから、外側による予定はなく、僕自身の予定のために職場に出た。
とは言え、午前中は少しだけゆっくりさせてもらった。マカロニウエスタンを一本鑑賞してから外出した。
マカロニの方は「待つなジャンゴ、引き金を引け」という映画だ。悪くはなかったが、この映画のことはまた別の機会に書こう。
午後から職場入りする。3時間ほど勉強する。その他、サイトのこともやっておこうと決めていた。
サイト作業は、パソコンの状況次第だった。ネットへの接続がスムーズにいけば、やっていこう、スムーズに行かないようなら中止にしようと考えていた。あれこれパソコンをいじってなんとか接続しようとする根気と時間が無駄だからである。
先月の経験から、どうもルーターというかサーバーというか、その容量がいっぱいに達しているようだ。月が変わると順調になったので、どうもそうとしか思えない。だから、4月になれば容量が復旧するだろうから、それまで待てばいい。あと数日の足止めをガマンすればいいだけのことだ。
ページが開かないのでサイト作業は中止とする。その代わり、もう余計なサイトを開かないでおこうと決め、不要なサイトの履歴を全部削除した。
不要なサイトというのは、動画とかゲームだ。
ゲームは、いわゆる経営ゲームというもので、二つやっていたものがある。多少なりとも経営感覚が身に付くかと期待していたけど、所詮はゲームである。もう要らない。あとはジグソーパズルのサイトだ。何か作りたくなった時にやっていたゲームだ。これももう要らない。全て削除だ。
動画は、以前ここでも書いた「空耳アワー」とか、そういうお笑い系、バラエティ系の動画を見ることがあるのだけど、これらもすべて削除。
すべて削除すると、何となく、清々した。
ゲームの良くないところは、視神経をやられたり、生活リズムが乱れたりするところにあると一般の人は考えると思う。それも正しい。でも、一番良くないのは、それが心的に低い機能レベルでなされるということだ。高次機能がなくてもできるということだ。ジャネの言う「実在機能」を発揮させなくてもよいということだ。そうして低次の心的機能だけで個人が存在することを許してしまう点にある。
だから、引きこもりの人の定番活動がゲームになるのだ。意思や集中を必要とせず、指先だけの作業で事足りてしまうからである。持続も必要なく、ゲームの方で勝手に進行してくれるのだから、最小限の断片的な注意で間に合うものである。こういうものに親しむほど、高次の機能が後退してしまうと思う。「ネトゲー廃人」なんて言うけど、要は、人間の心的に高次の機能が破損してしまうということではないか。そんなもの、夢中になるだけの価値もない。
削除して清々した。本なんかも同じかもしれない。不要な本は処分しても構わないと最近は思うようになった。
もし、読んでみて、よく理解できない本があるとする。そういう時、今の僕にこれが理解できないのだと思う。そして、いつかこれが理解できる日が来ると信じて、この本を保存しておく。
もしかすると、僕の考えは間違っているのかもしれない。今、理解できない本は、これから先も理解できないかもしれない。僕の限界もあるだろうし、僕の中にあるテーマとそぐわないためであるかもしれないし、それが僕の必要とするものではないのかもしれない。そういう本は処分しても差支えがないのかもしれない。最近はそんなふうに考え方が変わってきている。
いけない、観念的な話になってきている。ここでは日々の記録を綴ることになっていたのに。
やたらと空腹感に襲われた。食べ物を詰め込む代わりに、知識を詰め込む。しかし、最後はやっぱり腹が減る。ついついドカ食いをしてしまった。これも悪い習慣だ。昼食を抜いて、夕食でガッツリ食べてしまうというパターンだ。
気候が良くなると、膝具合がましになる。今日は不具合はなかった。ただ、腰痛が復活してしまった。
夕方、たまたま外出した時に知り合いに会う。バッタリ遭遇することは避けられないけど、あまり外を歩くのも控えた方がよさそうだ。
その後、行きつけの飲み屋に行って、忙しくてしばらく来れないということを伝えておいた。もうそこには伝えなくてもいいかなと思っていた。でも、一応言っておこう。心配されても困るし、「最近どうしてんの?」とか、そういう類の連絡が入るのも面倒だ。やはり、最初に言っておこう。
これでいきつけの店にはすべて連絡がついた。明日から安心して引きこもれる。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)