12月6日:怯える人々

12月6日(金):怯える人々

 

 ここ数日、やたらとハードだ。内用的にはそれほどでもないのに、やたらと疲れる。足の痛みは多少ともましになりつつあるけれど、余計な体力を使ってるのかもしれない。いや、多分、相当使っているだろう。

 

 本を一部処分しようと、読み捨てをやっている。捨てる前にもう一度だけ読んで、それから捨てるという個人的なキャンペーンだ。

 本はやはり好きだ。借りて読むより、古書でもいいから買って、いつでも自分の手元に置いている環境がいい。それで良書に巡り合うと、なんだか人生で得をした気分になる。

 中にはこれから読む本もあるし、いつか読むっていう本もある。その他、今は分からないけれど、これの良さが分かる日が来るかもしれないという期待を有している本もある。中途で興味を失った本や挫折した本もある。同じく、繰り返し読んだっていう本もけっこうある。

 どの本も僕の人生に付き合ってくれて、僕の人生を彩ってくれた。役に立った立たなかったは別にしても、どの本も思い出深く、感謝したい気持ちである。もう、これらの本ともお別れだ。

 全部を処分するってわけではない。目標は3分の1だ。今回はそれだけを処分するという目標を立てている。

 それと、新たに本を買わないように、今は自分を戒めている。これ以上増やさなくとも良い。どうしても欲しい本なら別だけれど、無暗に買うことは控えよう。

 

 それとかつて収集していたレコードやCDの類も徐々に処分していこうと考えている。身の回りのモノを少し減らしたいと考えている。

 音楽を聴くのも楽しいんだけれど、以前のように熱中することはなくなったな。ある程度の好みはあるとは言え、その好みの範囲だったら何でも聴く。ある意味では好みが広がったということなんだろうし、またある意味では拘りがなくなったということでもあるようだ。

 

 それと、現代の社会と人間にも辟易している。

 今朝もワイドショーで見たけど、京都ダルクの施設建設に地元の人たちが猛反対しているそうだ。僕は隣にそういう施設が建ってもイヤだとは思わない。

 ダルクの施設に入る人は薬物中毒者ではなく、薬物回復者なのだ。そこの区別をしておかなければならない。なるほど、確かに薬物中毒の人はヤクが切れると何をするか分からないといった意見には頷けなくはない。しかしながら、薬物回復者にはそれは当たらない。恐らく、反対している人たちだって、人中に入って、どの人が薬物依存者で、どの人が回復者で、どの人が薬物と無縁の人であるか、見分けなんかつかないだろう。薬物回復者も普通の人間なのである。

 地元住民の認識は、狂人は何をするか分からないという認識と同じようなものだと僕は感じている。何をするか分からないってことに関しては、狂人も正気人も関係がないんだけれど、一般にはそのような認識があるようだ。そして、少なくとも数百年前から一歩も進歩していない認識である。

 ダルクの施設が隣にできるよりも、隣にコンビニができる方が僕には怖い。どんな人が来るやら分からないってのは、むしろコンビニの方だ。ダルクの方がどんな人が来るかが分かっているだけあって、対処策も立てられようというものだ。

 ダルクの施設が隣にできるならできたでいいではないか。何か問題が起きたと言うのなら、その時になってから解決の道を模索してもいいではないか。何をそんな建設前からビクビクしているんだろう。地元の人たちの方が怯え過ぎだ。

 怯えている人はいつも被害的である。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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