10月31日:夫の束縛

10月31日(木):夫の束縛

 

 今日は昨日よりも膝の具合がいい。まだ若干の痛みはあるけれど、ましである。その他、余計な負担がかかったのだろう、足首とか腰に多少の痛みがある。今度はこちらが要注意だ。

 

 さて、昨夜の宴席でまあまあのお年の女性が旦那の束縛がひどいなんて話をしていたな。僕は商売柄そういう話はイヤになるほど耳にするのだけれど、もちろん、その女性に対して口出しするような野暮なことはしていない。「ああ、そう、それはたいへんね」くらいで水を濁す。

 こういう「束縛」なる言葉には注意が必要だ。たいてい妻の側がこの言葉を使う。しかし、この言葉にはいくつもの意味が含まれている。

 

 まず、その言葉から通常イメージされるところの意味がある。つまり、それが束縛と確かに評価されるようなものである。

 この中には常識範囲の束縛と常識範囲外の束縛とでも呼べるような二群を含む。

 常識範囲というのは、一応、その束縛が頷けるものである。「夜は危ないから早く帰っておいで」とか、「台風が来るらしいから今日はどこにも行かずに家にいて」とか、「子供が真似をするから夜更かししないで」とか、「冠婚葬祭があるから予定を開けて列席して」とか、そんな類のものである。こういう言葉を受け取る側からすれば、自分の自由が制限されるような言葉であるから、束縛と感じるかもしれない。しかし、こういうのは常識範囲内のものと僕はみなしている。

 常識範囲外というのは、これに若干の理不尽さが割り込んでくる。しばしば問題になるのは、こちらの方である。

 

 僕は常識範囲外と言ったけれど、本当はどこまでが常識範囲であるかは分かっていない。ただ、了解可能か否かで分けている。

 まず、極端な禁止並びに命令がある。ソースは三滴以上使うなとか、買い物に行ったら三十分以内に帰ってこいとか、夜は一歩も外に出てはいけないとか、普通に生活をしていたら普通に守れないような規則である。

 問題となる束縛の多くはこうした禁止と命令であるように思う。これは相手から束縛されると言うよりも、相手からある種の力を行使されているところに不満の根があるように僕は思っている。つまり、束縛に腹を立てているのではなく、対等な人間として扱ってくれていないというところに腹が立つというわけだ。

 

 次に、選択的否認がある。メッセージを全部受け取れば必ずしも束縛と言えないんだけれど、伝える側がメッセージの一部を除外してしまったり、受け取る側がメッセージの一部を否認したりすると、束縛と呼ばれるような状況が生まれるようだ。

 例えば、最近夜は物騒だから、今夜は早く帰っておいでと言ったとしよう。伝える側がこれをすべて言わず、早く帰っておいでしか言わなかったりするわけだ。また、その全文を言ったとしても、受け取る側が前半部分を無視とか否認とかしてしまうと、早く帰れというメッセージしか受け取っていないことになる。

 

 今のと少し似ているもので、投影・投射によるものもある。メッセージの送り手が「早く帰ってきてほしい」と言おうと、「早く帰って来るわけにはいかないか」と言おうと、「早く帰宅した方がいいんじゃないか」と言おうと、受け取り手には「早く帰れ」としか聞こえないというものだ。実際に次のようなやり取りがあったりする。

 妻「あの時、早く帰れって命令した」-夫「あの時は台風が来るから電車が止まる前に帰っておいでって言っただけだ」

 妻「この時も早く帰れって命令した―夫「この時は明日が早いから早く寝ようって言っただけだ」

 妻「その時も早く帰れって命令した」-夫「その時は家族の夕食に間に合うように帰っておいでって言っただけだ」

 この妻は投射の機制が働いているわけである。あらゆるシチュエーションにおいて、さまざまな表現がなされている状況で、この妻は一つのことしか聞こえていないのである。彼女が聞いているのは、夫の言葉ではなく、彼女の心的投影物なのである。

 

 否認や投射はどうしても現実をゆがめてしまうところがあるけれど、こういうのは神経症レベルの話である。これがもう少し病的になると、「束縛」は束縛以上の意味を持つようになる。それは自己への妨害であり、人格的侵害であり、破壊的行為である。

 例えば妻が友達と飲み会に行こうとしているとしよう。夫が遅くならないうちに帰っておいでと出かける前に妻に声をかけたとしよう。病的になるとは、この夫の言葉が妻の心を完全に支配してしまうことである。妻は自分が壊れてしまうような、破壊されてしまうような経験をそこでしてしまうことである。

 この破壊に対する防衛として、妻は夫に報復することもある。その際、しばしば邪推が入り込んでくることもある。例えば、私が友達と飲みに行くのを夫が嫉妬しているのだ、その嫉妬のせいであんなことを言うのだ、というものである。

 もし、夫が本当に嫉妬しているなら、妻が友達と飲みに行くことすら禁じたであろうと思う。論理的に考えたらそうである。もし、妻の言うことを信じた場合、夫に次のようなことが起きていることになる。妻が友達と飲み会に行く約束をした、その時は嫉妬していない。飲み会当日も夫は嫉妬していない。だから飲み会に行くことを禁じない。しかし、妻が家を出る瞬間、急に夫が嫉妬に駆られて、早く帰ってこいと言った、そういうことになる。どうも僕には現実的な話には思えないのである。

 

 長々と綴ってしまった。これくらいにしておこう。夫から束縛されると妻が言う時(もちろん夫と妻が逆の場合でも同様である)、この「束縛」と一語で要約されている言葉にはさまざまな意味合いがあり、さまざまな機制が関与しており、さまざまな体験がそこに含まれているということである。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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