<テーマ97> 話を聴いてもらえること
クライアントが面接室を訪れると、私はその人の話に耳を傾けます。私がその人の話に対してどういう聴き方をするかということは、本項では便宜上除外します。ともかく、クライアントはそこで自分の話を聴いてもらえたという体験をするものであります。
若い頃にカウンセリングを初めて受けた時、私は私の話に耳を傾けてくれる臨床家の存在をすごく嬉しく感じました。この嬉しさというのは、当時の私がいかに孤独であったかということを表しているものと、ずっと信じていました。当時の私が孤独だったが故に、私の話に耳を傾けてもらえて嬉しかったのだという理解をしていたということであります。現在では、その理解は間違ってはいなかったけれど、不十分だったというように認識しております。孤独だった私に聴き手が現れたから嬉しかったというだけではなくて、私が話に耳を傾けてもらえるだけの価値がある人間だったということが実感できたことが嬉しかったのだと認識しているのであります。
私たちは、カウンセリングに限らず、私たちに価値がある人の話には耳を傾けるものであります。私がその人の話に耳を傾けているということは、私がその人の価値を認めているということであります。
例えば、政治家の先生が街頭演説をします。私の興味や関心ということもそれには関わっていることですが、もし私があの政治家の言うことは聴いていられないなどと思って素通りした場合、私は彼の価値を、少なくとも政治家としての彼の価値を認めていないということであります。あるいは、大学時代に退屈な講義を受けているとします。私は講師の話に耳を傾けておりません。むしろ「面白くないな」とか「早よ、終わらんかいな」などと思っているのであります。この時、この講師は私にとって無価値な存在なのであります。私の中で、この講師は、耳を傾けるだけの価値を有した存在ではなくなっているのであります。従って、私にとって相手を無価値にするには、私が相手の話に耳を傾けなければよい、つまり、無視してしまえばいいということであります。
上の例は、話を聴く側、もしくは聴かない側のことでした。自分が話を聴いてもらえる、または、聴いてもらえないという場合ではいかがでしょうか。これを読んでくれているあなた自身の体験も思い出されてみればいいでしょう。私が個人的に親しくなった友人の多くは、私の話を聴いてくれる、聴いてもらえるといった人であります。私が聴き手になる友人も同じように多いのですが、ただ、お互いに喋り合う関係というのは、私の場合はですが、とてもしんどいのであります。人は自分の話を聴いてくれる人を好きになるものだと私は思います。話に耳を傾けてもらえるということは、どこか安心感を覚えますし、自分の価値や存在を認めてもらえているように感じるものではないでしょうか。そして、こういうことは日常的に体験していることではないかと思います。
クライアントとは「話を聴いてもらえる存在」であると私は捉えております。聴くことで私は自分の存在価値とクライアントの存在価値をも認めようと心がけます。聴いてもらえることで、クライアントも自身の価値を体験できると信じております。
しかし、いくら私がそう信じているからと言って、すべてのクライアントがそのように体験するとは限らないのであります。「話を聴くだけで、あなたは何もしなかったじゃないか」とか「結局、それで何が変わるのですか」とおっしゃるクライアントに何人も出会いました。私の聴き方にも問題があることは認めるとしても、彼らは自分の内側にまで目が行き届いていないのだろうと察します。自分の価値を体験することよりも、外側の事柄に目を奪われ過ぎているのだと思います。カウンセリングを始めてから、ずいぶん経って、このような体験をされるという方も少なくありませんでした。また、そのような体験をしていたとしても、必ずしも、クライアントがそれを表明するとも限らないのであり、その点に関して不明だという方もたくさんいらっしゃいます。
カウンセリングを受ける以前に、親に相談してみたというクライアントと最近お会いしました。相談してみてどうでしたかと私が尋ねてみると、彼は「もう少し気楽に考えたらいい」と言われたということでした。私は「その助言はあなたにとってどうだったのでしょう」と尋ねてみました。彼は「言ってることは理解できるけれども」納得はしていないようでした。彼の相談に対して、親は助言を与えたのであります。
その助言の内容がどれほど素晴らしいものであれ、あらゆる助言はそれ以上話をさせない方向に機能するものだと思います。助言を受け取った時点で、相談者はそれ以上話が続けられなくなるのであります。あなたにはそのような経験がないでしょうか。助言を受け取って、それでも話を続けようと思えば、その助言を否定するか、別の新たな問題を持ち出さなければならなくなるのではないでしょうか。私が思うには、彼が素晴らしい助言を受け取ったにしても、それと引き換えに大事な物を失ったのではないでしょうか。それはその人自身の価値に関する部分であります。
私が彼の立場だったら、私は一方的に話を打ち切られたというように体験していたかもしれません。軽くあしらわれたというように思うかもしれません。何よりも、自分に付き合ってもらえなくて悲しい思いを体験しているだろうと思います。従って、私だったら、私の話を聴いてもらえて、尚且つ、私のその話に付き合ってもらえて、それによって得られるであろうものに目を向けるなら、私はそのような助言を求めていないということにもっと速やかに気づいていただろうと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)