<テーマ100> 冬枯れの桜の木と「植物的な生」
冬枯れの桜の木が私は好きなのです。私が通勤に使っている駅には、桜の木が植えられているのですが、葉っぱ一つ付けていない桜の木を見るのが、冬の通勤の楽しみなのであります。
その駅の桜並木は、満開の頃になると駅の利用者は写真に撮ったりします。やはり満開の桜が好きだという人は多いのではないでしょうか。または、一気に花びらを散らせる桜吹雪の姿に共感を覚えるという方も多いかと思います。新緑の姿がいいという人もおられることでしょう。ですが、私にとって、桜の木は何と言っても冬枯れのあの姿が一番なのであります。
一見、枯れ果てたように見える桜の木であっても、春に花を咲かせるための準備をしているのだと思うと、あのような姿になっても尚、生をしっかりと営んでいるのだなと私は思うのであります。死んだように見えていても、決して死んではいないし、見えない所で生が営まれているのであります。
今、仮に生物の生を「動物的な生」と「植物的な生」というように、便宜上二つに分けてみましょう。「動物的な生」とは、移動し、エサを求めて活動する生き方であります。一方の「植物的な生」とは一所に根を張り、根からひたすら養分を吸収していくような生き方とします。どちらの生が望ましいかと言うことは、まったく関係がありません。動物は主に「動物的な生」を営むでしょうし、植物は「植物的な生」を営むことでしょう。
この二つの生を「動」と「静」のような区別に還元してしまわないように注意しなければなりません。「植物的な生」は必ずしも「静」とは限らないのであります。一本の木は、生きるために枝を伸ばし、根を張り巡らせるのであります。木が静かに立っているように見えるのは、私たちがそのような営みを直接目にする機会がないだけであります。動物だって、冬眠をする種もあるのですが、冬眠する動物を直接目にする機会はないでしょう。そのために、動物というのは常に動き回っているという印象を抱いてしまうかもしれません。
この二つの生に対して、それでは人間はどちらに属するだろうかということですが、私の個人的な見解では、人間の場合そのどちらもが可能であると捉えております。時と場合に応じて、「動物的な生」と「植物的な生」を生き分けているのかもしれません。
「うつ病」と診断された人は、一時的にであれ「植物的な生」を営んでいる人であると私は捉えております。「うつ病」と診断された人が苦しむのは、自分がもはや「動物的な生」が送れなくなったということにあると捉えることもできるかと思います。
「動物的な生」に価値を置きすぎると、「植物的な生」の持つ生命感情を見落としてしまうかもしれませんし、「植物的な生」に対してその価値を認めることができなくなるかもしれません。
私が研修中に経験した一人の女性クライアントを見てみましょう。彼女はひどい抑うつ気分を抱えて訪れました。当時、私が入っていた研修室には箱庭が置いてありました。彼女は話すのはしんどいからと、箱庭を作りたいと求められました。
抑うつ気分を抱えている方でしたから、箱庭を作るのも、当然きびきびと手際よく作るのではなく、緩慢な動作でゆっくりと作られました。彼女はまず、砂を中央に集め、小高い砂山を拵えました。その山の頂上を手のひらで平らにし、そこに一本ずつ草木を植えはじめました。田植えをするように、一つ一つ草木を砂に差し込まれていきました。
砂遊びを経験したことがある人なら理解できるかと思いますが、砂山に物を差し込むと、山がひび割れ、崩れそうになります。彼女はその度に砂地を固め、更に植えていかれました。
こうして出来上がった箱庭は、中央に砂山というか、砂の台地があり、その中央に植物が密生しているというものでした。人間も動物も一切登場しない作品が出来上がったのであります。
この箱庭は、その時の彼女の状態をそのまま表すものだったと私は捉えました。彼女は動物のように動き回れないのであります。動物的なエネルギーに満ちた動物たちは、その時の彼女には親和性がなかったのであります。むしろ敬遠したいくらいだったのだと思います。その代りに、彼女は植物を植えていくのです。これでもかというくらいに彼女は植えていきます。根元を埋め尽くすかのように、植物が突き立てられていきました。「植物的な生」の在り方が、彼女には親しみが持てたのでしょう。
この箱庭作品を見て、私が安心したのは、次の二点であります。彼女は植物しか用いなかったとは言え、中央に密集した植物たちからは生命感情が感じられたのでした。抑うつのために、「動物的」なエネルギーが枯渇していたかもしれませんが、植物は豊かに生きているのであります。その密集した林には瑞々しささえ感じられるように思いました。
そして、もう一つ安心した点は、彼女が砂地をギュッギュッと固める仕草であります。砂山が崩れるからそうしたのだと言えばそれまでかもしれませんが、その仕草にある種の力強さを私は感じたのであります。彼女は「植物的な生」を生きているけれども、根本はしっかりしているのだなという印象を受けたのであります。根元がしっかりしている限り、大地が草木をしっかり支えている限り、彼女の「植物的」な生命感は育っていくだろうと、私は見立てたのであります。
それが「植物的な生」の生命感情であれ、それが育っていくということは、彼女の中で何かが復活するであろうと私は思います。そして、私は彼女の見通しは明るいという希望を抱いて、この方に関わったのでありました。
冬枯れの桜の木は決して死に絶えているわけではありませんし、外見上は死んでいるように見えても、私たちの見えない所では生の営みが営まれ、花を咲かせる準備をしているのだと捉えますと、桜の木にはこのような冬枯れの状態がなくてはならないのだというようにも理解できるかと思います。
よく誤解されている方もおられるのですが、「動物的な生」を活動的で積極的であり、「植物的な生」は消極的で受動的な生き方であると思われる方がいらっしゃるとしたら、それは間違いであると私は考えております。
植物は決して受け身的に生きているのではないのであります。受け身的に生きているのは動物の方であります。動物はそこにエサがなくなれば、エサのある場所に移動しなくてはなりません。動物の方が周りの環境に対して受け身的な存在なのだと思います。一方、植物は、一所に根を張るのです。その意味では動物のように移動はしません。しかし、根付いた場所がどんな条件の場所であれ、植物はその場所で生きようとするものであります。そして、地中に根を伸ばし、上空に向かって枝葉を広げて、環境に働きかけているのであります。
木は、それが同じ種に属する木であれ、同じ場所に隣り合って立っているとしても、一本として同じ形状の木は生まれないのであります。形が一つ一つ異なるのであります。少しでも日光を受けようと、隣の木と重ならないように枝葉を広げていくのであります。従って、植物の方が自分の環境に対して、積極的に働きかけているのだと私は捉えております。
生の在り方を「動物的な生」と「植物的な生」とに分けて見てきました。「うつ病」と診断された人は、「動物的な生」からはかけ離れてしまっているかもしれませんが、「植物的な生」の在り方において、しっかり生きておられるものだと私は捉えております。ただ、このような在り方に価値を置かないという人が多いのではないかと思います。次の春に花を咲かせるために、じっと生を営む冬枯れの桜の木に、私は「うつ病」で苦しむ人の姿を見るような思いがするのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)