4月19日:魯迅先生

4月19日(金):魯迅先生

 

 今日はひたすら書いて読んでの一日だった。午前中に内省録を実施する。他の人にとっては意味のないものかもしれないけど、僕にとっては必要な作業であり、価値があるものである。午後からは主に勉強をして過ごす。引き続き知能に関しての論文などを読む。いつか知能学説をまとめて、僕の個人的な見解も交えて、このブログなりサイトなりで展開してみてもいいかなと思い始めている。

 帰宅後は少しパソコン内の整理をする。不要なデータは消去するか外部に取り出すかする。その作業の合間を縫って、本を読んだり、プランを練ったり、原稿の草稿をしたためたりする。夜中2時までに終わらせたかったが、思ったより時間がかかり3時半頃までかかった。

 

 生活に張りが欲しいと思っている。基本的に僕の毎日は決まりきった作業で成り立っている。日によって、今日は書く方を優先しようとか、今日は書くことよりも読むことの方を集中しようなどといった違いはあるものの、行為そのものは変化がない。仕事に関しても、面接をし、記録を採ったり聴き直しをしたり、音声データの整理をしたりといった決まりきった作業があるだけである。限られたヴァリエーションしかない。もちろん、そういう営みがイヤだというわけではない。ただ、何となく、もう少し張り合いになるものが欲しいと感じているだけだ。

 

 それにしても、選挙宣伝が騒々しい。今日初めて知ったのだけれど、高槻はけっこうな立候補者数である。40人くらい立候補しているんじゃないかな。その人たちが各々宣伝カーを走らせ、駅周辺で演説をやってたりするんだから、たまったもんじゃない。あっちゃこっちゃで宣伝を流されるので騒がしくてならない。

 選挙なんてさっさと終わってくれればいいのだ。投票率が5割とかそんなものだ。複数の候補者がそれぞれごく少数の票を競い合っているに過ぎない。少数の支持でも議員になれる時代だ。

 

 まあ、そんなことはどうでもよい。自分の生活が良いものになるかどうかは、政治で決まるのではない。精神で決まるのだ。

 先日、書架を整理していたら、中国の作家の魯迅の作品集が出てきた。世界文学全集の一巻である。あれ、どうして魯迅をここに置いているのかなと、僕はその動機が思い出せなかった。そこでその本を少しばかり紐解いてみると、ああ、そうだ、思い出した、魯迅先生のこの経験をいつでも参照できるように手元に置いておこうと思ったのだった。

 魯迅の子供時代は父親の病気のために貧困に喘いでいたそうだ。父のために漢方薬を買うのも、何かを質入れしなくてはならなくて、困窮生活を送っていた。父親の死後、魯迅は漢方薬なんてものがインチキだと悟るのである。僕が思うに、これはひどい絶望感をもたらしただろう。正しいと信じていたものがインチキだったと分かってしまうのはさぞ辛かっただろうと思う。こういう時、人が経験するのは失望とか絶望の感情ではないだろうか。魯迅先生もそうした感情体験をしたかもしれない。

 魯迅は人々が漢方なんかに騙されないために、西洋医学を学ぶ必要を感じた。魯迅はすでに西洋医学を取り入れていた日本に留学する。そこで医学の勉強に励んだことだろうと思う。ところがここでも転機が訪れる。当時、日本は日露戦争中であったが、捕虜のロシア兵をいたぶる日本兵の映像を見た魯迅は、いくら身体が健康であっても精神が健全でなければ意味がないと悟るのである。二度目の絶望があったのではないかと僕は思う。今度こそこれが正しいと信じていたものが、またもや間違っていたということを知ってしまうのである。魯迅先生が繰り返し絶望の経験から見いだした答えがそれだ。精神が健全でなければならないということだ。そうして魯迅は文学者に転向したのだそうだ。

 魯迅先生には及ばないけど、僕も同様の考え方をしている。精神が健全でなければ、肉体が健康であろうと、美男美女であろうと、あるいは金持ちになろうと支配者になろうと、すべて人生の敗北なのである。

 僕も敗北者の一人である。僕は自分の精神がそれほど健全でもないと分かっている。それでも多少は改善の動機付けは持っているし、多少ともその方向付けをしていこうとしている。僕がそれをやっていく時、政治家や議員なんて何の役にも立たないのである。どっちかというと、そういう種類の人たちは無関係である。僕が自分の生活や人生を良いものにしたいと願うなら、何よりも僕自身の精神の健全を目指さなければならないわけだ。

 そんな考えで僕は今日も生きている。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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