4月12日:死刑論

4月12日(金):死刑論

 

 先日、「犯罪心理研究」の第2巻を再読した。特集は「死刑」である。いつかその本のことは読書評に書くかもしれないけど、それはまたの機会にすることにして、普段、僕は死刑について考えることがないので、これを機会に、僕自身の死刑に関する考えをまとめ、ここに書いて残しておこう。あくまでも現時点での僕の考えである。

 ただし、こういうのは正答なんてものがないのだ。どの専門家も、「私はこう考えている」というレベルでしか議論できないことだと僕は思う。

 

 僕の考えはこうである。まず、制度としての死刑は存在してもいいが、その執行に関しては慎重でなければならず、できれば執行を回避する方向で進めていく方がいいと思う。これは冤罪の可能性が少しでもある場合や、更生や矯正の可能性が少しでもみられるようであれば尚更である。

 それでも、もし、死刑を執行する場合、死刑囚には安楽死をさせてやる方が良いと僕は考えている。

 また、執行までにその死刑囚に関して十分な研究がなされなければならず、それがなされるまではいくらでも死刑を延期しても良いと僕は考えている。

 

 見る人が見れば僕の考えは生っちょろいなどと思われるかもしれない。もう少し掘り下げて述べておこう。

 

 死刑賛成派が支持する見解として「応報の原理」があると思う。僕もその原理は認めるのだけれど、そこには制限があると考えている。それに応報の原理と復讐の原理とを混同してしまわないようにしなければならない。時折、両者を混同しているような人を見かけることがある。

 応報の原理とは、端的に言えば、「目には目を」というものである。これは他人の目を損ねた者は自分の目で贖うということである。決して、「やられたらやり返せ」といった復讐を煽動する思想ではないのである。実際には復讐を制限する思想なのだそうだ。つまり、目を奪われた者は、犯人の目以上のものを奪ってはならないということである。やられたこと以上のことをやり返してはいけないという禁止が含まれているのである。

 死刑は応報の原理で支持されている部分がある。つまり、人の生命を奪った者はその生命で贖うということである。そして、これで十分応報の原理を満たしていると僕は思うのである。

 しかし、被害者がされたのと同じことが犯人にも生じなければならない、そうでないと不公平だと考えるような人もある。僕はこれはナンセンスだと思っている。

 例えば、猟奇的殺人者に死刑が確定したとしよう。この殺人者は、被害者を20数か所もめった刺しにして、その後、死体の手足をバラバラに分断し、手足は川へ遺棄し、頭部は山に埋め、胴体は焼却炉で焼いて、その人肉を食したとしよう。

 公平にしようとすれば、上述のことをこの犯人も経験しなければならない。この犯人の死刑は20数か所をめった刺しにして、手足をバラバラにし、手足は川へ遺棄し、頭部は山中に埋め、胴体は焼いて、さらにその肉が食されなければならない、そういう執行になってしまう。これをすべて執行人がしなければならないということになってしまう。僕が執行人だったら絶対にイヤだ。 

 従って、犯人が被害者の生命を奪った手段と死刑の手段とは同じでなくてもいいと僕は考える。残虐な殺人者に安楽死の死刑を執行しても、僕はそれは構わないことであると考えている。他人の生命を奪った者はその生命で贖うという応報の原理はそれで十分に満たしたと、そうみなすことができると、僕は思うのだ。

 被害者の受けた苦しみと同じ苦しみを与えなければならない、これが復讐の原理であると僕は考えているのだけれど、この原理は応報の原理とは相入れないものである。

 

 死刑賛成派がもう一つ支持している見解は死刑制度が犯罪抑止力になるという見解である。死刑が抑止力になるかどうかは賛否両論がある。データだけからは読み取れないものもたくさんあるだろうと思う。つまり、ある人が犯罪を思いとどまったと言う時、その人に抑止力として働いたのが純粋に死刑制度だけであるのかどうかが分からないのである。他の要因が抑止力として働いていることもあるだろう。死刑がどこまで抑止力として機能したかということは本当は分からないのではないかと思う。

 そして、僕が思うに、自分を抑制できるような人にしかそれは抑止力として機能しないであろう。言い換えると、それが抑止力になるという人は、自分を抑制できる人なのである。そういう人が道を踏み外すのを防ぐことには役立ったかもしれないけれど、多くの犯罪者は自分を抑制できないと仮定すれば、本当に効力を発揮しなければならない対象に対してはまったく無効であるように僕は思う。

 抑止力として機能するかもしれない人たちもあると思うので、だから、制度としては存続してもいいのではないかと僕は思うわけだ。それは死刑が宣告されるような犯罪者に対しては何ら機能しないだろうと思われるのだが、それでも自分を抑制できる人の犯罪を抑止するのに効力があるのであれば、満更無意味でもなかろうと思う。

 

 さて、まだまだ思うところのものはあるけど、取り敢えずはこれくらいにしておこう。

 とにかく、僕の見解は中途半端なものである。まず、制度としての死刑と実刑としての死刑とを分けて僕は考えている。制度としての死刑に関しては、やや賛成寄りであるが、積極的に賛成しているわけでもない。実刑としての死刑に関しては、やや反対寄りであるが、積極的に反対しているわけでもない。そういう中途半端な立場を僕は採っている。

 ところで、死刑よりももっとひどい刑罰がある。「責任能力無し」という判決である。これは世間一般の人の考えと僕とがズレているところであるが、責任能力がないという判決ほど重い刑罰はないと僕は考えている。その辺のことはまたいつか機会があったら文章化してみたいとは思う。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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