<テーマ120> 「動き」の拒否

 

(120―1)「動き」を「悪化」と捉えてしまう

 カウンセリングを受けて、クライアントの内面に「動き」が生じれば、それは次の過程に進むきっかけとなるものです。でも、一部のクライアントはこの「動き」を拒否するのです。本項では、「動き」を拒否するという点について述べていくことにします。

 「動き」というものは、前項で示したように、クライアントから見て望ましい「動き」もあれば望ましくない「動き」もあります。望ましくないものとしてそれが体験された時、クライアントはそれを拒否するのです。その際の一つのパターンは、その「動き」を悪化のサインだと見てしまうということなのです。

 確かに、「動き」というものは、たとえそれが望ましい「動き」であったとしても、当人にとっては苦痛となる場合もあります。最初のカウンセリング経験で、私がやたらとその臨床家の先生のことで心を奪われた時、それは望ましいことである反面、日常生活のその他のことが手に着かなくなるという困った事態を招いたのです。もし、その後者の一面だけを捉えるとすれば、私のこの「動き」は、私にとっては悪化を意味しており、望ましくないものです。私はそこで、悪化したからという理由で、もしくはこれ以上苦悩したくないという理由で、カウンセリングを止めることもできたのです。一応、私にはその自由がありました。でも、揺さぶられながらも、一方では、この先自分がどうなっていくのか見てみたいという気持ちもあったので、私は続けることにしたのです。結果的に、続けてよかったとは思っています。

 私は三人の臨床家にお世話になった経験があり、それだけ長く続けている間には、望ましくない「動き」を体験したこともあります。「望ましくない」場合、ともかく無性にイライラするのです。私の場合、腹が立って仕方がないという形でその「動き」を体験したのです。この体験はこのカウンセラーとは縁を切ろうかとまで思わせるほど激しいものでした。しかしながら、怒りを感じているのは私であり、私の内側において怒りの炎が渦巻いているわけですので、恐らく、その臨床家の問題ではないのだろうと私は捉えることにしたのです。そこで、怒りを感じながらも継続してみることにしたのです。いつかそれ以後のプロセスを具体的に述べることができたらと思いますが、私の場合、そういう苦しい時期をも経験しましたが、それでも結果的には続けて良かったのです。

どの臨床家との面接であれ、私が「望ましくない動き」を経験した場合、少なくともそれを経験している真っただ中に於いては、それは非常に苦しいものでした。それでも続けて良かったと思えるのは、その経験の中にある重要な体験が含まれていたことが、後になって見えてきたからなのです。そこで私は得るものがあったのです。それが期待できていたので、私は苦しくなることがあっても続けることができたのかもしれません。

 

(120―2)クライアントは「動き」をどこかで体験する

 さて、論を進める前に、この点を押さえておきたいのです。面接を受けて、クライアントが「望ましくない動き」を体験したとします。その人はそれを「悪化した」と評価します。それでカウンセリングは良くないと短絡的に結論づけたりするのです。しかし、私から見れば、それは正しくないことなのです。

 クライアントはしばしば行き詰っており、人生においても内面においても膠着状態を体験しているという状態でカウンセリングに訪れます。そういう人に「動き」が生じるとしたら、それは望ましいことです。一部のクライアントはカウンセリングを受けて「悪化した」と評価したりするのですが、考えようによっては、その人がカウンセリングを受けなくても、その後の人生において、何か特殊な体験をした時に、同じような「動き」を体験する可能性は十分あり得ることなのです。従って、この場合、カウンセリングのせいで悪くなったと述べることは、正しくないのです。カウンセリング以外の他の体験でもその人が「悪く」なる可能性があるからです。

大抵の場合、「悪化」とみなされるものは、その人の内面にある何かが表に現れてきたのです。カウンセリングがそのきっかけになったとしても、カウンセリング以外の体験でそれが表に出てくることが起こり得るのです。実際、そういうことが起きてからカウンセリングを受けに来るという人も多いのです。

 

(120―3)「望ましくない動き」はカウンセラーの責任ではないか

 次のように反論される方もおられるかもしれません。クライアントに「望ましくない動き」が生じたのは、カウンセラーが何か間違ったことをしたからではないかという反論です。これは半分は正しいと私は捉えております。私にもいくつもの反省点があります。反省すべき事柄がまったくなかったというような面接を私は一度も経験したことがありません。どこか不適切なことを言ったりしたりしてしまっているという感覚にいつも襲われているくらいです。しかし、「動き」そのものは遅かれ早かれクライアントは体験していくものです。前項、<テーマ114>の強迫的な儀式で不安に対処していた男性の例でもそのことは述べました。この男性の面接で「問題」だったのは、それが急激に訪れたということでした。そこで「動き」が生じていなくても、彼はいずれ自分の不安に向き合うことになっていたでしょうし、向き合うにつれて、彼は自分の不安を自分で抱えていけるようになっていったでしょう。そうなることが望ましいと私は考えておりました。だから、「動き」が生じたということ自体が「問題」だったのではないのです。その「動き」が急激に生じたということが「問題」であったのです。その点に、私の反省点があるということは充分に認識しています。

 

(120―4)「動き」は安全感を脅かす

 もし、クライアントが自身の内面において生じた「動き」を拒絶したいと思っているなら、私に理解できることは、その「動き」がその人の安全感を脅かしてしまっているということです。それが「望ましい動き」であっても、脅威として体験されている方もけっこうおられるものです。

私はこのように考えるのです。確かに自分の中で何かが「動き」始めるとしたら、場合によってはとても恐ろしい事態になるだろうということです。今まで動いていない所に動きが生じたとなれば尚更でありますし、その人が「動き」に対して何の予測も準備もしていなかったとしたら一層恐ろしい事態になることでしょう。こういう危険な「動き」は拒絶して、以前の段階に留まる方が、本人にはたとえ不都合なことはあるとしても、それまで維持していた安全感が取り戻せるように思えるとしても不思議ではありません。そして、自分が変わっていくことよりも、これまで拠り所にしていた安全感にしがみつきたくなるとしても、それは極めて人間的な在り方なのかもしれません。

 そこでクライアントは一つの選択を迫られることになるのです。この「動き」を受け入れるか、これまでの安全感にしがみつくかという選択であります。クライアントにとってはどちらも苦痛が伴うことです。それでもどちらかを選ばなければならないという選択に悩むのです。この選択は、クライアントがはっきり意識しているとは限りませんし、不明瞭な困惑感のように体験されていることもしばしば見られることです。そして、この選択はしばしばクライアントの「迷い」として面接場面で表立ってくるのです。

どちらをクライアントが選択するか、私にはその決定権はありません。私が願うのは、「動き」を受け入れる方を選択してくれることです。私はそちらの方が他方よりもはるかに望ましいと考えているのです。クライアントは以前の安全感にしがみつこうとしますが、それは既にその人に十分な安全感をもたらしてくれないものになっているという例がほとんどなのです。もちろん、これは私から見てということであります。私から見て、その安全感は不十分にしかもたらされないと思われていたとしても、クライアントにはそれにやはり期待をかけてしまい、それが唯一のものに見えるものです。

 

(120―5)わずかな安全感にしがみついてしまう

 理解しにくいかもしれませんので、少し説明しなければならないでしょう。人は自身の安全感や安心感を獲得するために、あるいはそれらを維持するために、その人なりのやり方を身に付けるものです。精神分析でいう「自我の防衛機制」というのがこれに該当します。この機制がうまく働いていると私たちは不安から身を守ることができるわけです。しかし、「神経症」的な人の「防衛機制」というものは、とても不十分にしか安全感をもたらさないものなのです。それが不十分であったとしても、何らかの安心感、わずかでも安全感が体験されているとすれば、どうしてもそれを固持しようとしてしまうのです。これがいわばパターン化して、「性格の鎧」と表するものに結晶していくのです。

 しかし、それが初めから不十分であったとは限らないということも述べておかなければなりません。人生の一時期において、そのやり方はその人に十分な安全をもたらしていた場合もあります。ところが、環境や生活が変わって、そのやり方では間に合わないということが生じている場合もあります。「昔はこれでうまくいった」という記憶があるので、それに縋り付いてしまうこともあるのです。そうしてかつてのやり方、それも硬直した一つのやり方に固執してしまうのです。

 それが望ましくないやり方であっても、クライアントはしばしばそれに頼ろうとしてしまうものです。だからこの部分を「動かされる」というのは、至極迷惑千万な話なのです。でも、覚えていただきたいのは、多くの場合「治療」というものはそこが変わっていくプロセスなのです。

 

(120―6)現状維持の生き方

 ここに「神経症」的な生き方において、なぜ変化を拒み、現状維持に徹するのかということの要因が表れてきます。それが当人にとって不都合であるにも関わらず、それが救いをもたらしている、もしくはそれに代わる手段がないというような場合、その人はそれに縋り付くしかないのです。そして不都合な部分に関しては、ただ忍耐するだけというやり方を採るのです。

 施錠したかを確認しに何度も戻らなければならないという強迫行為を考えてみましょう。鍵がかかっているかを確認することは、その人にわずかな安心感しかもたらしていないのです。だから繰り返し確認する必要が生まれるのです。そのためにその人は人生上の大部分のものを犠牲にしているとしてもです。それが不都合をもたらしているということは当人には理解できているのです。しかし、それを止めることは不安を喚起させるのです。それを避けるためにも、その人はそのやり方に固執しなくてはならなくなるのです。これが「治癒」するということは、そのようなやり方で安全保障を得なくなるということです。他のより適切な手段を見出していくということでもあります。当人自身が不安を耐えられるようになっていくということも同じように重要です。いずれにしても、その人がその行為から解放され、その人自身の人生を送って行くためには、どこかでその不都合なやり方は放棄されなければならないのです。

 つまり、もし、それを変えようと思うなら、しがみついていたものを一旦手放す必要がどうしても生じてくるのです。もちろん、強調しておかなければならないことは、それを徐々に手放していくということです。そうしなければ、新しい物を身に付けることができないのです。不都合なものは望ましいものにその位置を譲って行かなければならないのです。そのプロセスにおいて、「動き」が生じているのです。

 

(120―7)右肩上がり幻想

 「動き」を拒否したくなるのは、変化というものが右肩上がりに進行するというクライアントが抱える誤った信念にある場合もあります。

 何事も右肩上がりで上昇することを期待するというのは、一回のカウンセリングですべてが良くなるというのと同じくらい、非現実な思考なのです。幻想と言ってもいいかもしれません。そのような幻想を抱くのは、その人が不都合な部分を見るに耐えられないからだと私は捉えております。

 実際は、どのような事柄でも右肩上がりに上昇するものはないのです。上がったり下がったりを繰り返しながら、徐々に右上に上昇していくものです。ユングは螺旋状に描くという比喩でこれを表現しました。一周してスタート地点に近づくのだけれど、以前よりも一段高い位置にその人はいるということで、「治療」とはそれは繰り返すことなのです。

 そして、人により様々な体験をされるのですが、初めに大きく上昇する人もあれば、最初に下降して後で上昇する人もあります。これは私がコントロールできるものではないのです。このために、カウンセリングにおいて、それ以外の事柄に関しても同様なのですが、ある程度の時間経過に則って見ていく必要があるのです。

 

(120―8)「動き」の検討

 「動き」は生じるものです。「動き」が生じない場合、それは逆に何かがうまく行っていないということが多いのです。それはそれで取り上げたいと思います。

 カウンセリングにおいて、そういう「動き」が生じた場合、クライアントはどうするべきかを述べます。私はそれをそのままカウンセラーに伝えるべきだと考えております。もっとも良くないのは、それを伝えることなく、何も言わずにカウンセリングから去って行くことです。もし、クライアントに「動き」が生じたのであれば、それには必ず意味があるはずです。次に私たちはその意味について検討してみる必要があるのです。そこから見えることが、次の段階への導き手となることが多々あるのです。

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

 

 

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