<テーマ114> クライアントに生じる「動き」
(114―1)「動き」は変容の第一歩である
クライアントに生じる内面的な「動き」は、それがどのようなものであれ、クライアントが変わっていくための第一歩となると私は捉えております。
この「動き」には、それが望ましい方向のものである場合もあれば、望ましくない方向のものである場合もあります。そのどちらにしても、変容への第一歩であるという価値に変わりがないものであります。
この「動き」がいつ生じるということは、一概には言えませんし、私も予測がつかない場合もあります。初回面接の後にそのような「動き」を体験する人もあれば、数回の面接を経て体験する人もあります。比較的初期に、そういう「動き」が生じるケースは、私の経験した範囲では、展開が早く進むものであります。なかなか「動き」が生じない人ほど、長引く傾向があるように捉えております。
(114―2)「動き」とは
では、私が述べている「動き」というものにはどういうものがあるのか、どういう現象を「動き」と称しているのかということを述べようと思うのですが、この「動き」の一覧表を作成することは容易なことではありません。そのような表にはありとあらゆる感情の言葉が並ぶことになるでしょう。それで、そのような一覧表を作るのではなく、私自身の経験や、クライアントから見聞したことを述べるに留めます。
まず、私自身の体験から話すことにします。私は22歳頃にカウンセリングを受けた経験があります。当時の私はひどい精神症状を抱えており、おまけにアルコールに溺れるという日々を送っていました。ある理由から、私はこのような状態から抜け出さなければならないと目覚めたのであります。そして、あるクリニックを探して、そこでカウンセリングを体験したのでした。
私が初めてカウンセリングを経験した時、家に帰ってから、やたらと面接してくれた臨床家のことに心を奪われるようになっていたのを覚えております。そこは診察票のようなものをくれたのですが、やたらとそれを引っ張り出して眺めて見たり、そこの広告を見たりと、とにかくその先生や機関のことへの関心が高まっていったのを覚えております。私がクライアントに名刺を渡すのも、こうしてサイトにダラダラと書き綴るのも、もしそういう人が私への関心が高まった時に、私に関して眺めるものがあった方がいいだろうと思うからであります。それもまたこうして書く理由の一つなのであります。
それはともかくとして、何よりも、私の場合、一回目の面接でとてもいい体験をしたものでしたので、心の中が、いい意味で、騒がしくなっていったのを覚えております。期待が高まったり、将来が見えるような思いもしましたし、感情が高ぶって、涙もろくなったりとか、感情の起伏をやたらと体験したりしたこともありました。こうしたことは、その面接を受けていなければ生じなかっただろうと思いますので、これらの感情体験はこの面接によって私にもたらされたものであります。私が「内面の動き」と表現しているのは、そうしたものであります。私の中で何かが騒ぎはじめ、動くのであります。私の中で何かが動いているような感じを体験したので、私はそれを「動き」と表現しているのであります。
(114―3)望ましい「動き」と望ましくない「動き」
その「動き」においては、期待が高まったり、将来への展望が開けるような思いをしたりと、望ましいこともありました。
一方で、涙もろくなったり、怒りっぽくなったり、甘えたくなったりと、感情的に動揺して一定しないということも経験しています。こちらの方は少々しんどい体験でありました。これらは望ましくないもののように見えるかもしれませんが、ただそう見えるというだけで、実は望ましい「動き」の一つでもあったのだと、今ではそう見えるのであります。ただ、当時はそれでしんどい経験もしましたが、そのしんどさは必要なしんどさでもあったのだと思います。
一応、望ましいとか望ましくないという分け方をしていますが、これはそれを体験しているクライアントの観点から見てということであります。期待が膨らんだり、将来の展望が開けるようであったり、あるいは気持ちが活動的になったりといったことは、当人には望ましい「動き」として体験されるものであります。こうした「動き」(感情体験)は、その人の安心感を増すものであります。
一方、涙もろくなったりとか、感情の起伏が激しくなったりとか、不安を以前よりも体験してしまうとか、こういう類の「動き」はしばしば、当人には受け入れがたい体験として、つまり望ましくない「動き」として認知されるものであります。
しかし、先述のように、こうした体験は、クライアントから見れば望ましくないように見えるのですが、臨床家の観点からすれば、必ずしも望ましくないとは言えないのであります。つまり、そういう形で、クライアントに「動き」が生じたということは言えるからであります。
必要なことはクライアントの内面に「動き」が生じることであるというのが、私の考えている前提でありますので、どのような形であれ「動く」ということが肝心なのだと捉えていただければ結構であります。
さて、当人には「望ましくない動き」と体験されているものは、大部分、後には消失するものであります。なぜ、そうなるのかと言うと、多くの場合(私の場合もそうでしたが)、「動き」のなかった所に、急にそういう「動き」が生じているのであります。今まで動いていなかったものが急に動き始めるわけであります。始動が急激であるほど、この「動き」は大きな動揺を当人にもたらすものであります。急激に動き始めたから激しく動揺するような「動き」になるわけであります。この「動き」は時間と共に、あるべき姿に落ち着いていくものであります。
(114―4)「望ましい動き」と「望ましくない動き」を体験された例
私のクライアントにおいても、そのような「動き」を報告してくれる人がおられます。ある女性クライアントでしたが、彼女は初回面接から二回目の面接までの間に劇的なほどの「動き」を経験されました。彼女は精神科で薬を貰っていたのでしたが、初回面接の後、気持ちがものすごく安定して、それ以後、薬なしでも生活できていると報告されました。この改善が一時的なものであったとしても、彼女の中で何かが「動いて」きたから、そのような変化につながっていったのであります。彼女の場合、急激な安心感を体験していたのだと考えられるのであります。この場合、この「動き」は望ましいものとして彼女には体験されていたのでした。
ところで、私の立場は、カウンセリングにおいて生じるクライアントの内面的な「動き」はすべて望ましいものであるというものであります。これは前節で述べた通りであります。しかし、一部のクライアントには、「悪くなった」こととして体験されてしまう人もおられます。つまり望ましくない「動き」が生じたということであります。
望ましくない「動き」が生じた時に、しばしばクライアントが陥る思考は、「カウンセリングを受けて悪化した」というものであります。
例えば、極めて強迫的なクライアントがいました。男性の方でした。彼は強迫的な儀式で不安を処理しているのであります。それが成功しているとすれば、彼は苦も無く強迫的な儀式を継続するでしょう。しかし、彼が「治療」を求めるということは、この儀式が彼にとって、もはや不安処理能力を喪失しているということを意味するはずであります。
残念なことに、彼は二回ほど面接を受けて、「不安が強くなって、続ける気にはなれない」と述べ、カウンセリングから離れたのであります。確かに、彼と話し合っていると、彼の不安に触れざるを得ないのであります。急激に不安に陥らないように私も気を付けていたのではありますが、どうも彼の不安の方が強かったようであります。
彼の強迫的儀式は自身の不安に目を背けるために役立っていたものでした。そのやり方が通用しなくなっているということは、彼は自身の不安に新たな対処をしていかなければならないということであります。その際に、自身の不安を今まで以上に体験してしまうということは、どうしても起こり得ることであります。彼が不安を感じるようになったということは、強迫的儀式から彼が抜け出し始めているということであります。この観点は欠かせないと思っています。
傷口を見ないように蓋をしている人を想像してみましょう。その人は蓋をすることに不自由さを感じております。ここで蓋をすることではなく、この傷口を治癒していくことが肝心であると気づいたとします。この人は何をしなければならないでしょうか。まず、蓋をどけて、傷口を見てみるということから始めなければならないということになるのではないでしょうか。強迫的儀式を続けていた男性は、傷口を見た途端に恐れを感じ、「治癒」の場を後にしたのであります。
確かに辛い作業になったと思います。本当なら十回や二十回はかけて、こういう作業をしていくべきでした。彼とのカウンセリングでは、とにかく展開が速かったのであります。短期間に彼は自分の見たくない「傷口」に触れるということをしてしまったのであります。いずれにしても、この男性の事例において、その展開の急激さが問題であったのでありますが、彼が不安を感じるようになったということは、必ずしも悪い「動き」とは言えないということなのであります。
(注:本項は長文であるので二回に分載します)
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)