<テーマ108> 「ひきこもり」~不可能の世界に生きる人たち 

 

(108―1)はじめに

(108―2)「ひきこもり」の範囲

(108―3)自発的には訪れない

(108―4)事例~「部屋まで来てほしい」

(108―5)「不可能世界」の人たち

(108―6)人間関係のゲーム

 

 

(108―1)はじめに

 私が経営しているようなカウンセリングルームは、「ひきこもり」の人にとっては利用しにくいのではないかと思っていました。何しろ、クライアントの方から動かない限り、こちらは一切関わらないという姿勢を採っているからです。「ひきこもり」の人にとっては、私のこういう姿勢はいかにも冷たく感じられるのではないかと危惧しております。

 そのために開設当初は、恐らく「ひきこもり」の人とは御縁がないだろうと考えておりました。ところが、「ひきこもり」乃至はそれに準じるような方もけっこう来談されるようになり、私は意外に思うと同時に、自分の認識を変えざるを得ないということを実感したものです。

その内の何人かは、「ひきこもり」から脱却し、社会活動への参加を目指し、成熟への方向を歩み始めることができました。それ以外の何人かは、早々と中断し、「ひきこもり」の生活を堅持されました。他の問題でもそうなのですが、上手くいく人もいれば、上手くいかない人もあるものです。

クライアント自身の人生なので、「ひきこもり」を続けられる方はそうされても構わないと思います。私がいくらそれが望ましいことではないと主張しても、彼らを強制することもできないのです。しかし、中断したクライアントであれ、このカウンセリングで何か得るものがあれば、私は一応それでよしと考えることにしています。

いずれにしても、彼らから学ぶことも多く、そこで得た見解等をこれから述べていくことにします。これが少しでも「ひきこもり」の方々の役に立つということであれば、また、「このカウンセラーとはやっていけそうだぞ」と思われる方が生まれるとすれば、私としても嬉しい限りです。

 

 

(108―2)「ひきこもり」の範囲

 以前(<テーマ46>)にも述べたことですが、ここではすべて「ひきこもり」という一語で括っています。一人一人の「ひきこもり」の人たちを見ていくと、その人それぞれに背景があり、その人の置かれている状況があり、抱えている「病理」というものがあるのですが、そうした差異を一旦脇に置いております。そして、特定の現象が共通して見られるということだけで、「ひきこもり」というカテゴリーに括っています。従って、ここで「ひきこもり」と述べる場合、それはとても大雑把な概念であると捉えていただきたいのです。

 それでも、一応、単純な定義だけはしておくことにします。ここで言う「ひきこもり」とは、それを体験されている方々にはそれぞれの背景や理由が存在しているとは思いますが、そういう個人差のようなことは一旦度外視して、「家に閉じ籠り、対人関係はまったくないか極端に限られており、特定の仕事ないし社会的な活動に就いていないという状態にある人」というように定義しておきます。

「ひきこもり」をしている期間は特に問いません。一般的には、それが六カ月以上続いていると「ひきこもり」と見做されるのですが、この期間に私は重点を置かないことにしています。なぜなら、その「ひきこもり」がいつ始まったのかということは、それを体験されている当人にでさえはっきり言えないことが多いからであります。従って、上記のような状態で何年も過ごされている方も、一か月前からそういう状態になったというような人も、等しく「ひきこもり」として捉えていくことにします。

 

 

(108―3)自発的には訪れない

 冒頭で、私は「ひきこもり」の人とは御縁がないだろうと述べましたが、そのことは一部においては当てはまっていました。彼らは、やはり、自発的に援助を求めるということをなかなかしないのです。

たとえ、当人が問題意識を抱いて、何とかしようと思って動いても、「ひきこもり」が許される状況にあると、どうしてもずるずると「ひきこもり」を続けてしまう傾向があるように私は思います。

これは、少なくとも次のような理由によるものと思います。彼らの「ひきこもり」環境は、何らかの形で彼らの安全感をもたらしていたり、自己の一部のようになっていたりするので、その環境から外に出るということは難しかったり、恐ろしいというように体験されているという状況です。

 しかし、何らかの事情で、これ以上「ひきこもり」を続けるわけにはいかないという状況に置かれてしまうと、彼らは途端に危機感を覚え、焦燥感に駆られて、相談機関を探し始めるのです。過去に私がお会いしたのはすべてそのような方々でした。

 そのような事情がありますので、私がお会いした「ひきこもり」クライアントというのは、長い「ひきこもり」歴を有している、いわば「ベテランのひきこもり」という人がほとんどです。従って、私の「ひきこもり」観には偏りが生じているかもしれませんことを再度お断りしておきます。私が述べることは、もしかすると、「ひきこもり」歴の浅い人には通じないのかもしれません。

ちなみに、「ひきこもり」歴の短い人と長い人とでは、違ったように考えなければならないと私は捉えております。若い年代に一年や二年の「ひきこもり」期間があったとしても、私はそれが人生上の大きなハンディキャップになるとは思わないのです。ところが、その期間が十年、二十年といった長期になると、事情は異なるのです。十代で「ひきこもり」を始めた人は、二十代、三十代の後半といった年齢に達しているのです。これは多くの面で不利益を当人にもたらすものですが、この辺りのことは今後、述べていくことにします。

「ひきこもり」に関しては、述べるべき事柄が非常にたくさんあるのですが、ここではまず、彼らとの面接において生じる事柄から始めたいと思います。次に一つの事例を掲げます。

 

 

(108―4)事例~「部屋まで来てほしい」

 ある時、問い合わせの電話がありました。相手は男性で、どこかおどおどした感じの言い方で、「カウンセリングを受けたいのですけど・・・」と言いました。何か言いにくいことがあるという印象を受けましたので、私は「カウンセリングを受けたいけれど、何?」と尋ね返しました。相手は、「ちょっと言いにくいことなんですけど」と断って、「先生に僕の部屋まで来てくれませんか」と頼むのでした。私は「何かこちらにお越しになれない事情がおありなんでしょうか」と尋ねます。彼は「特にそういうものはないんだけど、外に出ることができなくて」と言います。私は「外に出られないというのはどうしてでしょうか」ということを更に尋ねます。すると彼は「実はずっとひきこもりの状態で」と答えます。

 つまり、「ひきこもり」があるから、カウンセリングを受けに行くことができないのだということです。しかし、カウンセラーの方から来てくれるのであれば、カウンセリングを受けてもいいということなのです。

 私は少しだけ彼の話を聴くことにしました。彼の話ではかれこれ十五年くらいひきこもりをしているということでした。その間、家の外に出るということはほとんどなかったようでした。買い物に行くこともできないと彼は話しましたし、人と会うこともできないとも語りました。そして、彼には他にも「強迫性」の問題があるようで、外にあるものは汚いと感じていました。ドアにも触れることができないし、電車のつり革にも触ることができないのだという話まで、彼はしました。そのために外に出ることができないという側面もあるようでした。

 自分の部屋に来てほしいという彼の要望に対する私の答えは、「それはできません」でした。どういうわけか、私は彼の部屋に行くのはとても嫌だなという気持ちに襲われたのでした。彼の方から面接室まで足を運んでくれるのであれば、喜んでお会いしますとは言ったのですが、私が要求をのんでくれないと分かって、彼は若干失望したようでした。そして「来てくれないなら、もういいです」と言って、彼は電話を切りました。

 このわずかなやり取りにも、「ひきこもり」の人の抱える問題やパターン、傾向などがよく表れていると思います。次節(108―5)において、それらを考察するつもりでおりますが、ここでは、この例に関していくつかの詳細を述べることにします。事例を読むことが煩わしいという方は、次の段落からを飛ばして、(108―5)にお進みください。

 さて、上記の例に於いて、私が感じた嫌な気持ちというのは、後になって考えてみると、彼の部屋が有している意味にあったということに気づきました。自分の部屋というのは、唯一、自分が自由にすることが許される場所です。彼が自由にできる環境で彼と会うということに、私はどこか抵抗感を感じていたのです。また、彼にとっては自分の部屋だけが安心して所属することができる世界であるようにも私には思われたので、そこに他者が踏み込んでいくのは、却って危険なことではないかとも考えたのです。

 つまり、彼の要求を断ったのは、彼にとって自分の部屋が、唯一彼が安住することのできる空間であるわけなので、私が踏み入ることで、それが損なわれるのではないかということなのです。それともう一点あります。

彼はこの十五年間というもの、「病人」として生きてきたと言ってもいいのです。彼の要求を私がのむとすれば、それは私が積極的に彼の「病人」としてのアイデンティティを受け入れることになってしまうのです。彼は不安や恐れがあまりにも強いために外出することが困難であるということは確かでしょう。でも、一方で、身体的には外出することに支障を来しているというわけではなかったのです。彼は潜在的には外出可能な人だったのです。

従って、彼に関わるとすれば、私が彼の所へ行くのではなく、彼が少しずつ外に出ることができるようになっていくということが一番に目指されなければならないのです。例えば、彼の家まで行って、玄関先に出て来てもらって顔を会わせるというところから初めて、家から少し離れた喫茶店なんかで少し会話をするといったことにつなげ、最終的に私の面接室にて面接を受けるという方向へ導いていかなければならないことだと思います。ただ、現実的に私が彼一人にそこまで時間と労力を割けないのです。

 恐らく、彼はあらゆることをコントロールしなければいられない人だったのだろうと、私は推測しております。外に出られないのは、ドアや吊り革に付着している菌のためであり、外気中に漂う「良くない物」のためです。それらから身を守らなければならないと同時に、それらを自分の支配下に置かなければならないのだと思います。そうしなければ生きていけないと感じておられるようです。そのため、自分のコントロール下に置けない対象はすべて彼には脅威として体験されるのではないかと思います。彼が私に部屋まで来てほしいと要求する時、実は、彼は私をコントロールしようとしているのです。そのように解釈することができるわけです。私が嫌な思いを体験したというのは、彼のそういう傾向を感じ取ったためかもしれません。もちろん、敢えて彼のコントロール下へ飛び込んでいくということをしても構わないとは思います。少しずつ、そこから脱却していけばいいわけであり、関係が深まれば、彼は私が完全にコントロールできないということを体験しても、彼は崩れたりはしないでしょう。ただ、現実的に考えて、私が彼一人のためにそこまでする余裕がないのです。

 

 

(108―5)「不可能世界」の人たち

 この事例の男性を「ひきこもり」として捉えるのは正しくないかもしれません。一応、「ひきこもり」と見做して話を続けますが、もっと別種の「問題」として捉える必要があるように思います。

 いずれであっても、彼の話には、「ひきこもり」の人と面接している際に見られる現象が随所に現れています。彼の話には、とにかく「~できない」という表現に満ちていました。「外に出ることができない」「買い物もできない」「ドアにも触れることができない」「電話にも出ることができない」「人とも会うことができない」等々です。そして、こうした表現は「ひきこもり」の人に特によく見られる現象であると、私は理解しております。

「ひきこもり」を体験されている方々とお会いすると、彼らはとにかく「~できない」ということを連発するという印象を受けるのです。「働けません」「分かりません」「考えられません」「思い出せません」「外に出れません」「人と会えません」「何もできません」等々です。こういう「できません」の連続に出会うと、関わる方は自分の無力感を嫌というほど味わうものです。関わる側が我慢できなくなった時、彼らは見放されるのだと思います。つまり、「そんなにできないことばかりじゃ、生きていけないよ」とか「できないじゃなくて、やってみないっていうことでしょ」とかいうようなことを言いたくなるのです。

「ひきこもり」の人には「不可能」なことばかりです。何を問いかけても、誘いかけても「それは不可能です」とう返事が返ってくるというクライアントもありました。そういう意味で、私は「ひきこもり」の人は「不可能世界に生きる人たち」であると見るようになったのです。

 

 

(108―6)人間関係ゲーム

 こういうやり取りは、適切に表現することが難しいのですが、どこか勝ち目のないゲームに引き込まれたというような感覚を私は覚えるのです。

 このやり取りに於いて、大抵の場合、彼らの方が勝つのです。「どうです、あなたは私をどうすることもできないでしょう」という確信を得て、援助しようとする私を「無力化」させて帰られた人もあります。中には、勝ち誇ったような目でこちらを見下げて、退室されたクライアントもおられました。

 しかし、このゲーム、彼らが上記のような確信を得た時点で、彼らは勝ったのですが、同時に彼らは敗北もしているのでもあります。私を「無力化」するという点では彼は勝ったかもしれませんが、私をそこまで「無力化」に追い込まなければならないということは、既に彼が私からの影響を被っており、「敗北」感のような感情を体験しているからです。恐らく、この「敗北」は。彼の自己愛に関わるところのものでありましょう。

 もしかすると、彼の方が先に私によって「無力化」を体験していたかもしれません。いずれにしても、最後には彼は勝利を得て帰っているわけであり、最初に負けていた部分は彼自身にも見えなくなっていたことでしょう。

 ちなみに、勝っているとか負けているとかいう表現は不自然に響くかもしれません。これは別項で述べようと思っているのですが、彼らが築く対人関係というものは、常に相克の様相、勝敗の様相を帯びることが多いのです。私はそのような印象を受けるのです。常に、相手か自分か、どちらが優れているか、どちらが劣っているかということが重要になっている、そういう人間関係を築いてしまう傾向があると捉えております。

 以前、映像で見たことがあります。ひきこもりの青年とそれを援助しようとする人のやりとりの模様でした。援助者はいろいろ問いかけたり、助言を与えたりします。青年は「それはできません」「無理です」で応答していました。援助者がその理由を尋ねたりします。これこれだからできないと青年は答え、援助者はその理由の部分を取り上げます。「それは分かっているけど、できない」で青年は応じました。

 こうしたやりとりは、ひきこもりのクライアントと接しているとしばしば生じるものですが、援助者に無力感をもたらすだけではなく、不毛な作業に両者を落ち込ませるものです。

この種のやりとりは、傍から見ていると、あたかもゲームを楽しんでいるかのようにも見えてしまうのです。ゲームと言うと響きがよくないのですが、もう少し正確に言えば、彼は自分の全存在をかけて応酬しているのが感じられるのです。必死に自分を守ろうとされているかのようでした。「それはできない」と言うことで、彼は自分をかろうじて守ることができているかのようでした。

 

 

(108―7)本項の要点

「ひきこもり」の人とお会いしていて繰り返し遭遇するのは、「~できない」という表現です。本項ではこの表現をめぐって考察しています。周囲の人や彼を援助しようとする人は必ずこの表現の連続に直面するのです。

これは、援助者を無力化する方向に作用し、「ひきこもり」体験者も彼らから見放される結果になりかねないものです。

あらゆる助言や他者の言動に対して、「それはできません」と答えることは、当人にとってはそれがただ一つの防衛術のようなものであり、それ以前に「ひきこもり」体験者は既に相手から多大な影響を受けている可能性があるということです。

また、「~できない」を連発することは、彼らの築く対人関係の在り方と適合しているようであるということです。これを連発することで、他者を自分の人間関係のパターンに引き込んでいくように感じられることもあります。

 このパターンの結末は、周囲の人の無力感であり、当人の自己防衛の遂行と優越というところに行き着くように私は思います。

以上の点を述べてきましたが、「~できない」に関しては、「ひきこもり」体験者にはとても大きな問題であると私は捉えておりますので、次項においても引き続き考察していくことにします。

 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

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