<テーマ106> クライアントの動揺
クライアントが初回面接を受けた後、もしくは初期の数回面接を経た後、私が危惧していることが一つあります。それはクライアントの動揺ということであります。本項では、この動揺ということに関して述べていくことにします。
(1)ある女性クライアントの一例
このような動揺というものがどういう現象であるかを、まずは一つの例を挙げて述べてみることにします。
クライアントは女性でした。初回の面接において、彼女はこれまで自分が体験してきた親子関係を語られました。そして、彼女がいかに親に対しての怒りを抱えてきたかを表現されたのであります。彼女がそのように表現したことは今までに一度もなかったということでした。この面接において、初めてそれを他者に語ったということであります。
彼女は翌週、二回目の面接の予約を取られました。しかし、数日後、彼女は怒って、その予約をキャンセルし、私のカウンセリングは受けないと断言されたのであります。何が起きたのか、私は尋ねてみたのですが、彼女は答えることを拒否されました。
彼女が何も語ってくれなかったので、私は彼女にどういうことが起きたのかを推測するしかありません。とにかく、キャンセルした時の電話では、彼女はとても怒っているということであります。初回の面接ではそのようなことはありませんでした。むしろ、私との間では良好とさえいえる関係を築いていたのであります。そうであるならば、彼女の怒りは、初回面接を終えてから、掻き立てられたということになるのであります。
私の仮説では、彼女は初回面接において、何らかの「動き」を体験しているということであります。何かが彼女の中で「動き」始めたということであります。その「動き」がそのような形で表面化したということであります。
その「動き」は、彼女に激しい怒りを掻き立てています。しかし、彼女が面接で語ったことは、両親に対する積年の怒りでありました。それが彼女の抱えていた問題であったのです。そして、彼女が日常生活において「怒り」を今まで以上に体験しているとするならば、それは彼女がその問題の本質的な部分に非常に近い場所に位置しているということになるのであります。彼女は怒りを抑え、それを体験しないように生きてきたのですが、それがこのようにして体験されているということは、彼女にとっては「悪化」として体験されていたり「良くないもの」として捉えられているとしても、やはりそれは前に進んだことを意味するのであります。
もちろん、私の側に落ち度がないとも言い切れません。もっと時間をかけて少しずつ両親に対しての感情を表現してもらった方が良かったのかもしれませんし、初回面接での私のフォローが足りなかったのかもしれません。そういった点に関しては、私も反省すべき点があるでしょう。しかし、彼女が怒りを表現し、それが受け入れられたからこそ、今まで以上に怒りを体験している、もしくは怒りを体験することに抵抗がなくなっているのだと私には思われるのであります。そして、彼女が彼女の問題を克服するためには、彼女が体験しているものをそのまま体験するという過程をどうしても経なければならないのであります。彼女はそこを避けてしまったのだと私は捉えております。私のもう一つの反省点は、彼女のキャンセルを受けるべきではなかったということであります。
これがクライアントの動揺ということであります。面接を受けた後に、その人に何かが生じるのであります。それは面接で体験されたことによって生じているものであると私は捉えております。
(2)何が動揺をもたらすか
上記の女性の例を見ると、彼女が両親への怒りを口に出して語ったのは初めてのことでした。彼女にとって初めて経験することであったのです。こうした経験は、少なからずその人を揺り動かすものであります。
私たちは日々様々な出来事を体験します。その体験は自己の内面に消化されていきます。ちょうど食物が消化されるように、私たちは体験を自己の中に消化し、自分のものとしていくのであります。食物が消化される時には、私たちは気づかないのですが、私たちの体は活発に活動しているのであります。摂取された食物が消化されていくために、身体が働いているのであります。
食べ慣れないものを食べた時には、消化不良を起こすこともあります。しかし、その消化不良でさえ、それを消化していくための活動であるわけであります。外国に行って、現地の料理を食べたことがある人は、こうした経験をお持ちではないかと思います。現地の人たちはそれで消化不良を起こしたりはしていないのであります。彼らはそれを食べ慣れているからであります。
体験を自己に消化するという場合にも同じように考えてみることができます。慣れない体験や初めての体験というものは、同化していくのに時間がかかったりするものであります。その人に、いい意味であれ悪い意味であれ、動揺をもたらすものであります。動揺という言葉が相応しくなければ、内面の何かが動くと言っても構いません。そしてそれが通常のことになっていくに従って、動揺が減っていくものであります。
私が子供の頃、電車のつり革に初めて手が届いた時の衝撃を今でも覚えております。兄たちは既に大きかったので、普通にそれに手が届いているのであります。私はまだ小さかったので、それに届きませんでした。初めてそれに手が届いた時、私は自分が偉大になったように感じたのでした。それは私の心を大きく揺さぶるような体験でありました。そして何度も吊り革を掴んでは放しということを繰り返したのでした。そうして、私は自分の体験を消化しようとしていたのであります。今では、吊り革につかまっても、そのような動揺を体験することはありません。それを消化し、それに慣れてしまっているからであります。肝心な点は、その人が何か今までにない新しいことを体験した時には、その人の内面を大きく揺さぶるような動きが生じるということであります。
私は「慣れ」という言葉を用いていますが、これも正確な言葉ではありません。例えばペットを飼われている方であれば理解できるかもしれませんが、最初に飼ったペットの死は深い悲しみをもたらしたのではないでしょうか。この死別体験は大きな動揺をもたらし、なかなか消化できないものだったのではないかと思います。二番目のペットが亡くなった時も、同じような悲しみは経験することでしょう。しかし一番目のペットほど大きな動揺はもたらさなかったのではないかと思います。これは「慣れ」というよりも、一番目のペットで体験したことが下地として残っているからであると言っていいかと思います。その体験が消化され、下地としてその人の中で同化されていることで、いわば準備や耐性ができいていると言うこともできるかもしれませんが、いずれにしろ、最初の体験ほどには大きく揺さぶられることは少ないことでしょう。
(本項は長文でありますので二回に分載します)
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)