<テーマ106>クライアントの動揺(続)
(3)危機としての「動き」
その人が初めて体験するようなことを体験した場合、その人の内面が大きく動かされてしまうということは、日常において、私たちのこれまでの人生において、幾度となく見られることであります。そういう「動揺」を避けることはできないものであると私は捉えております。
この「動揺」は、人間には避けて通れないものであると同時に、その体験を消化して自己の中に収めていく過程において不可欠のものであると私は捉えております。しかし、それはその人にとって一つの「危機」でもあります。
その体験が、その人の根底から揺さぶるようなものであればあるほど、その人は体験を消化していくことに苦痛を感じるものであります。
恐らく、多くの人が覚えがあると賛同してくれるかと思うのですが、初めての性体験というものは物凄い衝撃だったのではないでしょうか。これはセックスということもそうですが、男性の場合だと初めて射精した体験であるとか、女性の場合だと初めて生理を体験したという時、根底から揺さぶられるような体験をされた人もおられるのではないでしょうか。その体験によって危機的な状態にまで陥った人もあるのではないでしょうか。
性体験や性に関する事柄で、そのような危機的状態に陥ったという経験をお持ちの方は、ご自身の体験を思い出しながら読んでいただくといいかと思います。私の場合を述べましょう。
私の場合、初めてセックスした時は、それほどの動揺をもたらしませんでした。これは一つには知識として性行為を知っていたからだと思います。しかし、初めて精子が出てきたときは、それはもう恐ろしくて、生きた心地がしない毎日を送ったものでした。私が小学生の頃で、何しろおちんちんの先から得体の知れない白い物がどろーんと出てきた時には、たいへんな衝撃を受けました。私は自分が何か悪い病気になったのだと実感しました。それは自分がおかしくなってしまったという動揺だったのであります。当然、これは家族には言えず、私だけの秘密となったのであります。毎日が不安で仕方がありませんでした。体におかしなことが起きて、この先自分がどうなってしまうのだろうと、そういうことばかり気に病んで毎日を過ごしていたのを覚えております。後々、それが男性の体の自然な働きであり、男性はみなそれを経験するものだということを知って行くことで、私はこの不安から免れていったのであります。いずれにしても、それが理解できるまでは、私はその体験が受け入れ難く、内的に動揺し続けていたのであります。この時の動揺は、先述のつり革に手が届いた時の動揺に比べて、はるかに危機的状況を私にもたらしたのでした。
ちなみに、この時の危機的状況に対して、私の場合、知っていくこと、知識を得ていくことが有効だったのであります。このことは洞察を深めるということと関連しますので、頭の片隅にでも留めておいていただければよろしいかと思います。
(4)危機の克服
私たちが経験するこのような動揺で、恐らくもっとも大きくて衝撃的だったのは、出生の瞬間だったと私は思います。私たちはただその時のことを覚えていないだけで、この世界に送り出されるということは、相当な危機的状況をもたらしたのではないかと思うのであります。ただ、見逃してはならないのは、この危機的状況を経験しないと、私たちはこの世で生きることができなかったであろうということであります。
何かを体験すると、その体験の内容によっては、その人に大きな動揺をもたらすものであるとするならば、そのような動揺を避けるためには、私たちは何も体験しない方が良いということになってしまうのであります。そうして生きている人たちも私は知っております。その人たちの生き方に私が干渉することはできないのですが、彼らは危機や動揺を体験しない代わりに不毛な生活、縮小された世界に生きているのであります。
つまり、私たちが何かを体験し、新たなことを獲得し、自分の世界を広げていこうとする際には、こうした動揺をいやが上にも経験してしまうということであります。
先に怒りを駆り立てられてカウンセリングから遠ざかった女性の例を挙げました。彼女は新たな何かを獲得し始めたその矢先に、それから手を引いてしまったのであります。そして、このような行為こそ「神経症」的なのであります。一歩踏み出したのに、また、元の位置に戻るということを彼女はしているのであります。
従って、このような「動揺」というのは、どのようなものであれ、次への「動き」を意味するものであります。私はそのように捉えております。
言い換えると、このような動揺は危機でもあるわけですが、その人が成長、変容していくということは、こうした危機を内面的に消化していき、克服するということと同義なのであります。
(5)クライアントはどのように「動揺」を体験するか
何かを体験した時に、それは心の中に動揺をもたらすということを述べてきています。その体験が初めてのものであるか、その人にとって意味深いものであればあるほど、その動揺は大きくなり、時には危機的な状況をその人にもたらしてしまう可能性があるということであります。しかし、この動揺は、その体験を自己の中に消化していく過程を示すものでもあり、変化、変容へ向かう「動き」でもあるということであります。
クライアントはカウンセリングの中で、多かれ少なかれ、このような「動き」を体験されるものであります。それが徐々に体験される人もあれば、一回目から体験される人もあり、いつ体験するかということは一概には言えないことであります。より安全な形でそれが体験されればいいとは願っておりますが、クライアントに生じることなので、私がすべてをコントロールできるわけでもないのであります。
クライアントはこのような「動き」をどのようなものとして体験されるのでしょうか。私の経験では、とても素晴らしい何かとして体験する人と、とても最悪な何かとして体験される人というように二分することができるように思います。
ある男性クライアントは、初めて受けたカウンセリングの後、目の前の世界がとても色鮮やかになり、とても感動的だったと述べました。彼はその体験をもう一度しようと、いろんなカウンセラーを巡っていました。恐らく、その体験を彼がカウンセリングですることはないだろうと私は思います。それはともかく、彼にとっては素晴らしい何かとして、それを体験されていたようでした。
私のカウンセリング体験においても、こうした「動き」を体験しております。二十代の初めころ、初めてカウンセリングを受けた時、私はその後、日常生活が覚束なくなるくらいの感情の起伏を経験しました。面接の場面を、その先生を何度も心の中で反芻して過ごしたものでした。大きく揺さぶられていたのだと思います。
これらの例を見ても分かるように、素晴らしい何かを体験していたとしても、本人にとっては苦しい部分もあるのであります。この点は抑えておくようにしたいのであります。
一方、最悪の何かを体験される方もおられます。上記の女性クライアントはその一例であります。しかし、彼女が最悪な何かを体験していたとしても、その体験が彼女の問題の本質に迫るものであったということは注目に値することであります。私から見ると、それは望ましいことでもあったのでしたが、彼女自身は「良くないもの」として受け取っておられたのであります。
もっとも「一般的」な言い回しは、カウンセリングを受けて、すぐに「良くなった」とか「悪くなった」というものであります。クライアントが「良くなった」にしろ「悪くなった」にしろ、そこに「動き」が生じているという点では等価であります。「良くなった」とか「悪くなった」というのは、クライアントの主観的な評価においてそう捉えられているということでありますが、私の視点からすると、しばしばその評価が正しくないということもあるのであります。もっとも愚かしい行為は、その一時点の主観的評価に基づいて、勝手にカウンセリングから離れてしまうことであります。これはせっかく生じた「動き」を台無しにするようなものなのであります。
それと、しばしば見かけるのは、その「動き」を身体で体験しているというような例であります。内面が「動く」ので身体にもそれが影響するということは頷けない話ではありません。しかしながら、内面の「動き」を「身体が不調になった」と体験される方も少なからずおられるのであります。心身症的な人やヒステリー性格の人には特にこの傾向が見られるものと私は捉えております。そして、これもまた愚かしいことでありますが、内面が「動いて」体の不調として体験されているのに、内面の方を切り離して、身体の治療に専念してしまう人もおられるのであります。その身体不調は、カウンセリングを経験してから生じたものであるから、それはもっと「心の問題」なのであります。
(6)本項の要点
それが「良いもの」と体験されているとしても、「悪いもの」として体験されているとしても、「動き」が生じているということは、その人の変化への可能性を表しているものであります。私の考えるところでは、カウンセリングでの最初の目標は、クライアントにそのような「動き」が見られるということなのであります。もちろん、それが少しずつ「動く」ということが、より安全であり、より望ましいものであるということは言えるのです。それをどのように実現していくかは、私の取り組むべき課題でもあります。しかし、何よりも強調したいのは、このような「動揺」は起きるものであり、これが生じないとその人は何も変わらないということであります。従って、この「動揺」を恐れないようにしないといけないということであります。クライアントがそれを体験しているなら、それはカウンセリングの場で話し合う必要があるものなのであります。そして、確実に言えることは、クライアントが変化していくにつれて、その「動揺」は恐ろしいものではなくなっていくということであります。なぜなら、その「動揺」には意味があるからであり、その意味がクライアントにも理解(洞察)され、私との間で共有されていくからであり、そのようにして消化された「動揺」は、その人を苦しめなくなるからであります。消化された「動揺」は、過去の一時点に経験された事柄になっていき、その「動揺」は、その人が変容していくための基礎となっていくのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)