12月10日:自殺論

12月10日(木):自殺論

 

 今日も少量ながら予定の仕事をこなし、サイトの原稿を書き、ホームページのことをやり、その他種々雑多な事務仕事をし、いくつかの個所を掃除した。あと、勉強をし、少しだけ好きなことをする。好きなことというのは、要するにミステリを読むってことだけど。帰宅後は映画を一本鑑賞する。今日はそんな一日だった。

 

 帰宅時、電車が止まっていた。人身事故のためだという。またか。つい先日も人身事故があって、その時は僕は車両の中で運転再開を待っていたのだった。今日は電車に乗る前だったので良かった。少し時間を潰す。

 コンビニに入り、結局、缶ビール一本買って、表の駐車場で呑む。やってられない気持ちだった。それからその辺をぶらつく。

 一時間ほど時間を潰していると、電車の運転が再開されていた。ダイヤは乱れているので、いつ来るか分からない状態だったけれど、とにかくホームで待ち、来た電車に乗って帰宅する。

 

 電車の人身事故と聞くと、僕は真っ先に自殺を思い浮かべる。過去にそういう場面に遭遇したことがあるためかもしれない。

 自殺ということに関して、僕は世間一般の人たちとは違った感覚を有している。自殺は人間に残された最後の自由であると思っているので、自殺を悪いこととは見做していない。だからと言って自殺を推奨するわけではないし、今しも自殺しようという人が目の前にいれば止めに入るだろうとは思う。ただ、自殺する人の自殺を止めることは誰にもできないことであるとも考えている。

 自殺という現象は分からないものである。まるきり解明されていない状態である。自殺に関する学会もあれば、それに関する文献も多い。いろんなことが言われているけれど、どれも部分的に正しいと言えるものばかりであるように思う。

 例えば、絶望は自殺を実現化させるかもしれないけれど、絶望そのものは必ずしも人を自殺に導くものではないと思う。逃避という側面を取り上げて考える人たちもあるけれど、それも同じである。逃避そのものはその人をして必ず自殺に導くものではない。自殺以外の逃避もあり得るからであり、それを選択する人も多いだろう。うつ病との関連も指摘されているけれど、うつ病者は自殺の傾向を高めるとは言え、自殺者のすべてがうつ病というわけではない。従って、うつ病ということもあくまでも要因の一つであり、部分的に正しいとしか言えなくなってくる。不幸との関連も強いかと思うけれど、自殺者のすべてが不幸を経験しているとも限らないのだ。と言うのは、何不自由ない生活を送っている人がある日突然自ら命を絶つといったケースもあるようだからだ。

 要するに、自殺に関しては何も分かっていないのである。分かっていることよりも分かっていないことの方が圧倒的に多いのだ。加えて、分かっているというものに関しても、そのどれもが正しい一面を持っていると言えるだけであり、部分的な理解に過ぎないものだと僕は考えている。

 僕の見解は、非常に単純なものであるけれど、実証はできないものである。要するに、死の衝動が生の衝動を上回った時に自殺が起きるということだ。これは死の衝動が高まる場合もあれば、生の衝動が弱まることで死の衝動が勝ってしまう場合もある。

 僕の見解は何の説明にもなっていないものだ。そもそも死の衝動とは何かというところから始めないといけないし、同じくらい生の衝動とは何かということも明確にしなければならない。でも、こういうのは概念としては想定できても、誰もが一律に了解できるような概念にはならないだろうと思う。

 

 しかし、考えてみれば、人はなぜ自ら命を絶つのかという問題が解けないのは、結局のところ、人はなぜ自ら命を絶たずに生きているのかという問題が解けないのと等しくなってくる。人がなぜ生きているのかを理解できていないのであれば、人はなぜ自殺をするのかを理解することも困難だろう。

 あなたはなぜ生きているのか、こう問われたらなんと答えるでしょう。生まれてきたからだと答える人もあるかと思う。個人がそう考えるのは自由なんだけれど、これは結局のところ同語反復にすぎない。

 家族のために生きていると答える人もあるだろう。それではその人は自分のためには生きていないのだろうか。おそらくそれには否と答えるだろう。同じように、自分のために生きていると答える人に対しては、それなら家族や友人のために生きているのではないのかと問われたら否と答えるだろう。

 仕事のために生きていると答える人に対しては、それならレジャーや生活のためには生きないということかと問えば、否と答えるだろう。愛する人のために生きるということであれば、それならそこから外れる人たちのために生きなくていいということかと問えば、おそらく否と答えるだろう。

 なぜ自殺するのかという問いにしろ、なぜ生きているのかという問いにしろ、何か一つのもので答えると、必ずそれ以外のもの、それから漏れるものがあるのに気づく。そうすると、どうしても何か一つのもので答えることが困難になってくる。

 それではそういう個々の要素を集合させたらいいのかという疑問も生まれるだろう。しかし、それでも漏れが生まれるだろうし、要素間相互に齟齬を来たすこともあり得るかもしれない。これはつまり、個々の要素をどれだけ寄せ集めても全体にはならないということだ。自殺に関する研究とはそういうものであるような感じがしている。もっとも、それは僕の個人的な印象に過ぎないものだ。個々の分野、個々の側面に関する研究はいくつもあるけれど、それを綜合しても自殺の全体像にはならないと僕は考えている。

 自殺とは、それくらい神秘的な現象であると僕は感じている。なぜ人は自殺するのかという問いは深淵である。

 僕は先ほど死の衝動が生の衝動よりも上回った時に自殺が生じると言ったけれど、そのような状態になるということは、その人の精神が変わるということなのだ。その人のいつもの心の状態が一変してしまうということなのだ。しかし、それがどのような体験であるのか、自殺者は語ってくれない。自殺が未遂に終わって、助かったという人であっても、その助かった時点で自殺時の心の状態ではなくなっているかもしれない。その人が自殺時のことを回想したとしても、その回想している時は通常の精神状態に戻っているかもしれない。

 自殺者の心理が永遠に謎なのは、それを研究する人間がどこまでも非自殺者の立場に立っているからだと思う。しかしながら、非自殺者の側の人が自殺者の側に立ったとしても、その時、その人は自殺を決行するであろうから、結局、謎は謎のまま残されてしまうのではないだろうか。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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