10月8日(木):治療と予防
昨日お見えになられたクライアントの問いにどう答えてよいかで頭を悩ます。
彼にはある問題行為がある。その行為の「治療」(彼らはカウンセリングをこう呼ぶ)に関して、彼の義理の親族たち(つまり彼の妻側の人たち)から「治療」はどうなっているのかといったことを訊かれるのである。
彼はそれにどうこたえていいか分からないわけだ。僕は彼に言う。治療は続けてますよと、そう言えばよいと伝える。
彼はそれでは義理の親族たちが納得しないと言う。僕は、別にそれ以上のことを彼らに伝える義務はあなたにはないですよと彼に言う。それはつまり、そこは彼のプライバシーの部分なので無理に相手に言うことはないですよ、という意味だ。
僕は彼のためにカウンセリングをする。彼の義理の親族たちのためにしているのではない。彼もまた彼自身のためにカウンセリングを受けているのであって、彼らのためにそうしているのではない。そもそも彼らは治療関係者なのかね。そんなことを訊いてどうするってのだろう。彼らの安心のためか。そんなの彼らの問題であって、彼のカウンセリングで取り上げることではないのだ。彼らなんか最初から関係ないのだ。
もっと踏み込んで言おう。義理の親族たちがそれでは納得しないと彼が不安に思うのは、ただ彼が親離れできていないだけのことなのである。しかし、それは今日の話には関係ないことなので脇へ置いておこう。
さて、彼の「治療」だけれど、正直に言えば、「治療」なんてまだ始まってもおらんのだ。そこに至るまでに何か月も要するかもしれないし、場合によっては「治療」に入ることなくカウンセリングを終えることになるかもしれない。
では、彼のカウンセリングで何をやっているのだと問われそうだ。僕はこう答える。「予防」をしているのだ、と。
彼もそうだけれど、義理の親族たちも「治療」と「予防」とをごっちゃにしているのだ。彼らだけでなく、一般の人は大抵両者を区別していないものである。
「治療」というのは、敢えて言えば、「彼がそれを(必要と)しない人間になること」と定義できるだろうし、「予防」というのは、「彼がそれをしないようになること」と言えるだろうか。両者の微妙なニュアンスの違いを読み取って欲しいと思う。
それで、一般の人の言う「治療」とは、上記の定義に従えば、「予防」に限りなく近い意味合いのものである。彼やその義理の親族たちの言う「治療」も本当は「予防」を指しているものなのだ。だから、僕が彼のカウンセリングでやっていることは、基本的には彼らの要望と矛盾するものではないのだ。
しかし、「治療」という観念を持ち出してくるから話がややこしくなる。これは僕だけがそう感じていることであるかもしれないんだけれど、なんていうのか「治療」幻想みたいなものが一般の人にはあるようなんだな。「治療」には価値があって、「予防」は価値が低いみたいな観点を持っているように僕には思われるのだな。
しかし、そんなことはないのだ。「予防」で十分なこともあるし、大半のクライアントはそれで上手く行くものなのだ。「予防」がしっかりできていればその人は大丈夫なのである。基本的にそうなのである。根本的な「治療」というものがなされていなくても、「予防」がしっかりできればそれでいいこともあるし、それで良しとしなければならない場合もある。
それに、「予防」ということを先にしないと「治療」というものは行えないものである。手術の前に麻酔をかけるのと同じようなものである。彼の予防がしっかりできて、日常生活を乱すような問題行動が起きないようになっていることが「治療」の前提条件である。僕はそういう考えをしている。
彼の義理の親族たちにそのことを理解してもらえるかどうか、僕は確信が持てない。詳しい理由は述べないようにしよう。彼や彼らの個人的な内容に触れなければならなくなるだろうから。
要点としては、「治療」ということに過度に拘らなくてもよいということなのだ。「予防」でも十分意味があることなのだ。義理の親族がそれで納得できないとしても、彼らの不安が払拭できないとしても、それは彼らの問題であり、彼らが処理しなければならない事柄なのである。僕には関係がないし、彼のカウンセリングにもそれは関係ないことなのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)