9月13日(日):無志向的性格
今日の日曜日は少しヒマだ。あまり予定も入っていない。昨日までが若干忙しかったので、たまにヒマな日が入るのはむしろありがたいことである。
予定だけはこなして、あとは幾分のんびり過ごす。来週は何を勉強しようかとテーマを決め、それに関する本を2冊ほどチョイスする。その他、趣味に関することもやっていきたいので、それ以外の本も2冊ほどチョイスする。後の方のは、まあ、言ってしまえばミステリ小説なんだけれど。
夕方、時間が空いていたので外出する。ちょっと買い物するものがあって、それを購入する。そこからJR方面まで足を延ばす。なんだか長いことこの辺りに来ていなかったような感じがする。
ジュンク堂がグリーンプラザから松坂屋へ移転したことを初めて知った。それくらいこの辺りはご無沙汰だったわけだ。
買いたい本があるわけでもないけれど、移転後のジュンク堂を覗きに行く。初見だからだと思うけど、書籍の配置がよく分からない。迷子になりそうだ。読みたい本が次々に見つかる。尚悪いことに、僕の財布には少々のお金が入っている。
イカンイカン、ここは目に毒だと思い、急いで書店を後にする。戒めるところは戒めておこう。
阪急側の喫煙場所で一服する。どこかの宗教団体だろうか、演説をやっている。勝手にやっときなはれ。耳を傾ける気もない。いじめ根絶のことをなにやら言っているようだった。無駄なことだ。いじめなんて根絶できない。
人間が3人集まればいじめは発生しうるものである。いじめは、いじめる側といじめられる側とだけで成立するのではなく、そこに第三の役割を担う人物が入ることで成立するものだと僕は考えている。
この第三の役割とは、いじめる役割の促進役であり、いじめられる役割の捕まえ役である。一番厄介な役割である。
いじめ問題は昔からある。問題の性質も時代によって推移している。僕の世代では今のいじめは決して理解できないと思っている。
ネットによる誹謗中傷問題なんて、僕の若いころには存在しなかった。でも、そこに今のいじめの構造を見ることができそうに思う。
例えば、ある人物が「Aさんはバカだ」と発言する。この一人の発言が速やかに大多数の言葉になっていくところが特徴的であるように思う。浸透性があまりにも高いように思うのである。
これを同調性と言ってもいいのかもしれないんだけれど、少し異なるように感じる。そこには同調する主体が欠けているように僕には見えるのだ。他者に同調するのではなく、他者になってしまうのだ。速やかに自分が明け渡されて、そこに他者が乗り移ってるような印象を僕は受ける。
こういう傾向を60年も前に指摘していた人がいる。デイヴィッド・リースマンである。『孤独な群衆』にはこいう傾向の人が描かれている。リースマンはそれは「他人指向」と名付けたわけだけれど、もはや他人志向ではなく、無志向である。志向する主体が無である。僕はそんな印象を受けている。
現代人(こんな括り方をしていいのか)は主体を喪失している。主体的であることの喪失ではなく、主体そのものの喪失である。主体が喪失しているということは、その主体があまりに空虚であることを意味する。空虚であるが故に、外部のもので埋めなければならなくなるし、外部のものが即自分にならなければならなくなる。そして、それを続けていけばいくほど、彼は混乱していくことになるだろう。
僕は毎日、主体の感覚を取り戻す訓練をしている。少しの時間だけれど、意識的にその訓練をしている。ものすごく簡単にできるものである。ただ、無志向的な人から見れば、それって本当に役立つの?と言われるようなことなんだけれど。
そんなこんなで一日が終わる。退室後は少しだけお酒を飲む。今、呑むと言っても2,3杯くらいである。昔のように量は飲めない。却ってちょうどいいくらいになっているのかも。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)