5月14日:コロナ・ジェノサイド~a la carte

5月14日(木):コロナ・ジェノサイド(42)~a la carte

 

(敢えて不慣れなことをする)

 前回、裏目に出てしまうのは無意識的な破壊性が影響するものであると述べた。この破壊性、もしくは失敗に動機づけられることの別の表われが「肝心な時に不慣れなことをする」という行為に見られることがある。

 10万円の一律給付の申請方法には二通りある。オンライン申請と書類申請である。オンライン申請にはマイナンバーカードが必要である。書類申請には送られてきたハガキに必要事項を記入して投函する手間がかかる。総務省はオンライン申請を推奨しているが、これに関してはいろんな問題が起きているそうである。

 そもそも、この給付はスピードが求められていたはずだ。できるだけ早く現金が国民の手元に届くようにしなければならないと言われていたはずである。急を要するわけだ。そういう時にどういう手段を採用するかである。

 オンライン申請は便利かもしれないが、大半の国民が経験してないものである。確定申告でもオンラインでって求められるけれど、それも最近のことである。多くの人が従来の手書き送付方式でやっているのだ。オンラインは、便利かもしれないけれど、不慣れである。

 一方、書類申請の方は従来のやり方に基づくことができるのである。選挙の時にハガキが送られてくる。あれと同じことを役所はやればいいのである。繰り返しやってきて慣れている方法を取る方が、特にスピード感を求められている場合には、適切なのである。

 スポーツ選手でもいつもの練習と同じことを本番でするように心がける。不慣れなことはしないものではないかと思う。仮に、本番直前に変更したとしても、それが身につくまで徹底的に練習するものであるし、そうした変更を身につけるだけの基礎ができているものである。

 直前で違うことを始めるのも「心の病」でよく見られることである。これは良かれと思ってやることが裏目に出てしまうことの一つのパターンであると僕は捉えている。人前で緊張するという人がいるとしよう。この人は明日面接試験を控えている。そしてこの人は本番で緊張しない方法をあれこれ求めている。この場合、その人の従来の方法に従うのが一番なのである。と言うのは、新しいことを身につける時間がないからである。加えて、即席の方法に意識を奪われて、その方法に自分がまだそぐわないという感覚を持ってしまう、つまり上手く行ってない自分を余計に経験してしまうからである。

 こういう例はいくらもある。本番とか大事な局面において、いつもと違うことをいきなり始めるのである。普段の練習通りのことを土壇場で放棄してしまうのである。当人はそれが良かれと思ってやるのだけれど、失敗する可能性がそこではるかに高まってしまうわけだ。

 今回の給付も、時間的余裕があるのならオンライン申請も認めていいだろう。しかしながら、緊急を要する事柄であるだけに新しい試みは控えた方がよかったと僕は思っている。

 

(検察庁法改正)

 この時期、政府はコロナ対策に追われているかと思いきや、不要不急の政策を決めようとしている。検察庁法を改正するというものだ。検察官の定年延長を審議するものである。これに関しては多くの批判が寄せられている。

 きゃりーぱみゅぱみゅさんまでもこれに意見したそうである。ちなみに、僕はこの人の名前を発音できない。どうしてもきゃりーぱむぱむとかになってしまう。まあ、それはいいとして、この人がツイッターで発言したところ、かなりの反響があったそうだ。僕はその原文を読んだことはないけれど、ニュースで読む限り、言っていることの中身はまっとうなものだという印象を受けている。何が批判されているのかよく分からない案件だ。

 この改正は「不要不急」だという意見も聞く。もっとも、不要不急に見えるのは我々にとってだけであって、首相からすれば緊急を要する議題なのである。何が不要不急であるかは立場に応じて変わるものだと思う。パチンコ店に並ぶ人たちにとっても、パチンコを打つことは不要不急とは定義されていないだろうと思う。僕から見れば不要不急以外の何物でもないんだけれど、当人たちはそう定義してはいないだろう。

 法律のことは触れないでおこう。僕は専門外の人間だから分からないことも多い。

 この改正は首相の保身のためだと言われる。確かにそうであろう。保身に躍起になるのはもっとも恐れを抱いている人間である。恐れが大きく、安全保障感が欠如しているほど、その人は武装しなければならなくなる。

 問題はその武装の仕方である。自ら武装していくのと、他人に武装を一任するのとでは大きな違いがある。検察庁が首相の武装を引き受けていた節がある。もしそうであれば、このことは次のことを意味する。首相は自らを理論武装することができず、それを誰かにやってもらわなければならないということである。さらに、もしそうであれば、そのことは首相が無力を覚え、退行的になっていることを示唆しているのではないだろうか。いずれにしても、自分で身を守ることができないので、代わりに守ってくれる人を必要とし、そういう人をいつまでも身近に置いておきたいのではないかと思う。

 これが個人の話なら問題はない。クライアントにもそういう人が少なからずおられる。自分自身を非常に頼りない存在と経験しており、如何なる場面でも自分を当てにできないのである。こういう人は「保護者」を求めるものである。そして、臨床家が一時的にその役割を担うこともある。ただし、これも度が過ぎると、その人は臨床家がなくては生きていけないという気持ちに駆られるようになり、臨床家を独占したがったりする。安心の源である臨床家を手放したくなくなるのだ。これは幼児的なしがみつきに等しいわけである。

 僕の見解はともかくとしても、この改正に抗議している人たちは正しいことを言っているのだ。コロナ禍の現状において、コロナ対策をもっとやれと、他のことは今はするなと、そういうことを言うわけであり、僕もその通りだと思う。

 ただ、政府にはこの抗議の根底にある感情は見えないだろうと思う。どんな感情がこのような抗議を生み出したか分からないだろうと思う。抗議している人たちでさえ自分の感情に気づいていないかもしれない。

 抗議の根底にある感情は怒りであると思う人もあるかと思う。しかし、怒りは常に何かの感情に対する反応として生じる感情であるという立場に僕は立っているので、さらに怒りの基にある感情を見なくてはいけない。

 政府の失策に対する怒りと言えば、一部は正しい。しかし、それだけでは本当は怒りを誘発しないのである。政府の失策によりある感情が生まれ、その感情の反応として、あるいはその感情の処理として、怒りが誘発されるのである。

 なぜそんなことが言えるのかという話は長くなるので手短に済ませよう。政府の失策に対して怒りを覚える人もあれば、そうでない人もある。個人差がある。しかし、感情はある程度共通した体験に基づくと仮定すれば、こういう個人差を認めることができなくなる。つまり、ある事柄に対して怒る人もあればそうでない人もあると言う時、この事柄は怒りの根幹にある体験ではないのだ。しかし、この事柄を経験すると大部分の人が怒りで反応するというものであれば、その事柄は怒りの根幹にある体験とみなして良くなるわけだ。この観点を持たないと他人の怒りを理解することはできない。なんでそのことで怒っているのかが分からないということになる。

 話を戻そう。では、政府の失策によって、政府への失望感が生まれ、その失望感が怒りを誘発しているのではないのかと考えることもできよう。僕はそれもあり得ることだと思うのだけれど、失望感は少し弱いし、正確ではないかもしれない。

 僕は絶望感だと想定している。絶望感情に対して、人は怒りで反応し、絶望感情をもたらした対象に抗議するのである。失望は期待が外れるという範囲の経験であるが、絶望は決定的に喪失体験なのである。この喪失に対する反応であり、抗議なのである。

 では、何が喪失されたのかである。それは祖国とのつながりであり、自己の基盤としての国である。政府に絶望するということは、政府との結びつきが失われることであり、それは生まれ育った国と自分との間に解離を生み出す。自己の安全喪失感を生み出すだけでなく、日本人という自分のアイデンティティにも深い影響を及ぼすのである。

 これに対して怒りで反応するわけである。単なる怒りではないのである。自己の喪失につながりかねない危機に対しての怒りなのである。

 僕はそのように考えているのだけれど、この次にもっとも恐ろしい事態が待ちかねている。この抗議は周囲から叩かれるのである。これは何を意味するかである。絶望が禁じられるのである。絶望する権利も自由も許されないということなのだ。

 もし、人間に絶望する権利や自由が剥奪されればどうなるかである。死ぬしかないのである。自殺はその人が絶望を奪われることによって生じることが多いと僕は考えている。つまり、人は絶望するから自殺するのではなく、その絶望が禁じられてしまうから自殺するのである。逆に言えば、絶望できる人はその絶望によって救われている部分があるのだ。絶望が禁じられる社会ほど恐ろしい社会はないと僕は考えている。日本はそうなりつつあるように感じられて、僕は恐ろしい。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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