5月5日:コロナ・ジェノサイド~攻撃性の行方(1)

5月5日(火):コロナ・ジェノサイド(38)~攻撃性の行方(1)

 

 「神は乗り越えられない試練を与えない」

 ドラマか何かのCMで耳にした。クライアントの中にもこれを言う人がいたことを思い出す。

 僕はこの言葉に反対はしない。本当に信仰のある人がこれを信じ、これを言うのは一向に差し支えない。しかし、信仰の無い人、あるいは信仰の薄い人がこれを信じる時、そこに一抹の不安を覚える。この人、大丈夫だろうか、と。

 信仰の篤い人がこれを言う場合、試練に耐えることは神に近づくことであると、僕はそのように考えている。試練は神からもたらされるものであり、これは神が自分を試していることになる。ヨブ記で描かれていることである。それが神から与えられる試練であるから、そこで試されているのは自分の信仰の真実さであるということになる。

 一方、信仰の無い人がこれを信じる場合、その人は攻撃性を内在させていく可能性が高まるという印象を僕は受けている。試練に耐えることが何ら意味づけられず、目的もなく耐えることになるからであり、それは相当な攻撃性をその人の中に生み出していくと思う。尚且つ、その攻撃性は表に出すことが許されない。試練は、その攻撃性の抑制とセットになって耐え忍ばなければならないものになる。それに、これは僕の偏見なんだけれど、信仰心が無く、尚且つ、自分自身や問題に直面できない人がこれを言うと感じている。

 それとは別にこの信念にはある種の危険性が伴う。搾取する側にとっては非常に都合のいい信念である。人間が与える試練であっても、この人たちはそれを神からもたらされる試練だと思い違いをしてくれて、何も言わずに耐えてくれるからである。搾取する側にとってみれば、こういう人は非情に使いやすく、消費しやすく、扱いやすいということになる。こういう見方をするのは僕がヒネているからだろうか。

 それに「乗り越える」という意味も多義的である。何をもって「乗り越えた」と言えるのかは、それぞれの試練の内容や状況により異なるかもしれない。客観的な基準を設定することも難しいだろうから、その人の主観的評価によるところが大きいのではないかと僕は考えている。要するに、ある試練を乗り越えたか乗り越えられなかったかといったことは個人が自由に決めてよいということになるわけだ。

 さて、前置きが長くなった。試練はそれを耐えるにしろ克服するにしろ、試練を受けている個人の攻撃性が発動されることになる。この攻撃性に関して思うところを綴っていこうと思う。ちなみに、攻撃性というのは、攻撃的な衝動、破壊的な傾向などの幅広い意味を含む語と捉えていただきたい。怒りであれ、憎悪であれ、情熱性であれ、攻撃性に関連する感情も多々ある。それらを一語で攻撃性と表現しているのだと思っていただきたい。

 

 さて、医療従事者に対する差別を止めようと呼びかけているCMを見た。そういう啓蒙も大事であるとは思うのだけれど、こういう啓蒙、宣伝にどれだけの効果があるかということに関しては、不明であるし、僕は一切信用しない。つまり、効果なんてないと信じているわけだ。

 もし、こういう宣伝や啓蒙活動が効果があると信じている人があるとすれば、その人は人間の攻撃性とか攻撃衝動をかなり軽く見積もっていると僕は思う。差別的発言の根はもっと深いのである。

 攻撃衝動、攻撃性を自分の中で処理し、統御できる人は、そもそもの初めから差別的発言をまき散らしたりしないのである。宣伝の効果があるのはこういう人に対してである。この人は今までそうしていたように差別的発言をしないように心がけるだろうし、宣伝はその決意を再認識させることになる。

 しかしながら、自分の心の中にある諸観念を統御できない人もある。自力で抑制できないから外部に漏らさざるを得なくなるわけだ。本人もそれに対して無力なのである。一方的に外部に漏れるのだ。いくら注意しても自分ではどうすることもできないのだ。心の中に悪感情が生まれると、それは本人の努力と無関係に、外に漏れ出てしまうのであり、且つ、外に漏らさなければならなくなるのである。

 こういう人は自分の中にある「悪」を自分でどうすることもできない。そこで外部の力を頼ることになる。外部というのは、親とか年長者とか上司、先輩などから、警察とか社会とかまで含む。そういう外の力に頼らなければならなくなるわけだが、頼る力が大きければ大きいほど、その人は自分の「悪」に対処できなくなっているわけだ。親に注意されて抑制できる人と、さらに多くの人を巻き込んで警察沙汰にまで発展させてしまう人とでは、後者の方がそれだけ自我の統制力が弱く、「悪」に対して無力であるわけだ。

 医療従事者に対する差別的発言にしろ、その他のネット上で展開される誹謗中傷にしろ、それをする人の中にはもはや自力でどうすることもできない人たちが含まれていると僕は考えている。その人たちに対しては、通常の宣伝や啓蒙は非力であり、もっと強い力を用いなければならないかもしれない。

 

 さて、今、自粛による抑圧的な生活を余儀なくされる人たちが多い。大半の人がそうではないだろうか。おまけに先行きの見えない不安を抱えながら自粛生活を送らなければならない。

 こういう生活を続けることは、それ自体、フラストレーションを高めることだろうと思う。通常の状況であれば、少々のフラストレーションは適切に処理され、自我によってあまり意識されることなく過ぎていく。要するに、少々の欲求不満であっても、自我が機能している限り個人はそれから守られることになるわけだ。自我の防衛機制が機能しているわけである。

 しかし、フラストレーションが高まり、それに加えて自粛要請によって適切に処理することも制限されている状況である。自我が機能できる限界を超えてしまうこともあるかもしれない。自我機能の強さよりもフラストレーションの方が上回ると、自我が適切に機能できなくなるわけだ。そうなると自我の統制ももたなくなる。

 自我の統制が緩むということは、通常なら意識外に抑制されている諸観念が容易に意識に侵入してくることになる。しっかり抑圧(抑制)されていた攻撃性などの「悪」が意識に上がり、心を占め、容易に表面化しやすくなる。平常時では生じなかったDVや虐待といった暴力問題が生まれるのもそうした背景があると僕は思う。

 ここで指摘しておきたいことは、攻撃性の自我化である。攻撃性が自我を占めるようになれば、その攻撃性が自我になるとみなすことができるわけであり、これは攻撃性の自我化と呼んでいいと思う。あるいは自我の攻撃化と言ってもいいだろうか。

 自我が攻撃性に占められ、それが自我化するということは、もはや攻撃は攻撃と認識されなくなるという現象を生み出すと僕は考えている。つまり、その攻撃は自我にとって異質なものではなくなっているのである。

 反社会的な傾向の強い人にはそういうのが見られる。暴力や犯罪行為をしても、その人は自分の行為が暴力とも犯罪とも認識されていないのである。それは合理化されることもあるし、自分の暴力行為が暴力であると認識できるほどの反省をもたないこともある。それが自我にとって親和性がある限り、当人にとってそれは「異常」なことではないのである。それが自我にとって異質化した時に初めてその人は自分のその行為が暴力であり犯罪であったことを認識できるのだ。

 差別的発言にも同じことが言えると僕は思う。その人の自我が差別的な観念で満たされているとすれば、その人が自分の発言を差別的発言であったと認識することは困難である。だから外部の啓蒙が無意味になるのである。差別的発言を止めましょうと呼びかけられても、その人はそれが自分を指しているとは認識できないからである。自分がそのCMで呼びかけられていることの対象となっているとは理解できないのである。

 

 ずいぶん長々と綴ってしまった。ここで一旦区切ろうと思う。続きはまた明日にしようと思う。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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