4月20日(月):コロナ・ジェノサイド(28)~a la carte
種々雑多なa la carteである。手当たり次第に選んだ小テーマを綴る。
(今すぐよこせ)
国民一人当たり10万円の給付は決まったようだけど、給付は5月か6月になるとのことらしい。今すぐよこせ、と言いたい。
考えてみれば、この国は補償という観念に乏しかったかもしれない。その代わり、賠償はやりやすいようだ。後から賠償する方が値がつけやすいためかもしれない。いずれにせよ、補償に関してはこの国は絶望的だ。
アホウ氏曰く、手を上げた者にあげるとのこと。ザツな言い方に政府のやる気のなさを感じ、憤りも覚えるが、今はそんなことをしている場合ではない。僕は今すぐ手を上げるから今すぐよこせ。
(アベノマスクはゴミ箱へ)
アベノマスクも配布が始まっているらしい。なんでもサイズが小さくて実用に耐えないとのことらしい。ある事業所では、アベノマスクの上に通常のマスクを重ねて使用しているらしい。要するに、アベノマスクは無くてもいいのである。
それに繰り返しの洗濯にも耐えられないようである。洗濯すると縮んだりするらしい。ただでさえサイズが小さいのに、洗うとさらに小さくなるとすれば、もはやマスクとしての価値もなくなる。
アベノマスクは国民に対する侮辱である。そんな粗悪品を国民に配布するのである。我々は粗悪品を受け取って感謝を求められるのである。アベノマスクなど、届いたらゴミ箱に捨ててしまえ。500億円の血税がこうしてゴミと化す。
(抱っこよりおんぶ)
某女性アナウンサーが感染し、幼い子供を誰が面倒見るか、そういう問題も起きている。母親が面倒を見ればいい。
それでもし子供に感染したらどうするんだと反論する人もあるかもしれない。それは大人の理屈である。子どもは自分が感染しても(感染云々ということも分からない年齢の子供なんだけど)、親と一緒にいる方がいいと思うものだ。逆に言えば、親から引き離される方が子供は苦しむのであり、自分だけ感染から助かったということも後々まで子供を苦しめるものである。
感染した母親もたいへんである。自身が苦しいのに、通常の子育てに加え、子供に感染させないようにという注意も怠るわけにはいかないからである。
必要な時以外は子供と距離を取る。当然、自身の消毒もしなければならないし、子供の手も常に消毒してやらなければならなくなる。お互いにマスクをつけて生活しなくてはならない。抱っこする時は、対面する形ではなく、子供の後ろから抱っこする形にした方が良さそうだ。いや、抱っこよりもおんぶの方がまだ安全かもしれない。
何よりも、母親が病気であっても、子供は母親と居たいと願うものである。子どものためにも母親は(同じく父親も)コロナに負けるわけにはいかないのだ。
(休日の外出)
昨日の土日、多くの人が外出をしたようである。緊急事態宣言の出ている地域の人たちは他府県まで遠出をするそうである。潮干狩りを楽しむ家族、サーフィンに興じる若者たちの姿がテレビに映し出されていた。
僕も思う。コロナがなければ今年もいい春だったのになあと。好天の日には特にそう思う。陽気に誘われてどこか遊びに行きたくなる気持ちも分からないではない。僕もそんな気持ちをすでに経験している。
しかし、今年はいつもの春とは違うのだ。同じようにいつもの夏、秋とも違うのだ。去年までは当たり前に許されていたことが今年は許されないのだ。もしかするとこれが今後数年続く可能性だってある。世界が変わってしまったのだ。
気のゆるみとか、危機感が足りないとか言われる行動である。政府はそれで行動変容ということを呼びかける。しかし、そうではないのかもしれない。世界が変わってしまったということを多くの人がまだ受け入れられないのかもしれない。
(行動変容って)
政府は簡単に行動変容ってことを言うんだけれど、行動変容がどれほどたいへんな過程であるかはご存じないようである。行動変容を求めるなら、少なくとも半年から一年は専門家のところへ通わないといけない。ある人の行動は、その人のパーソナリティと不可分であるからである。
つまり、行動変容とは、その人のパーソナリティが変容することによってもたらされるものであるから、到底、自力では難しいことなのである。
人は誰か他の人の行動が変わらないと嘆く。行動が変わるためにはその人の意識が変わらないとだめだと考える。それはそれで正しいかもしれない。では、意識が変わるとは何か、それはその人の認識体系が変わるということである。さらに、人の認識体系を形成しているものは何か。その人の積み重ねてきたものである。それはつまり人格ということになるわけである。
政府や知事は国民に行動変容を求めるが、それは国民には過大な要求である。一時的に変えることはできる。表面的には政府の言う通りの行動を取ることはできる。しかし、長期的に続けることはできないのだ。根本のパーソナリティがそのままなので、それが表面化する場面が必ず出てくるのである。
(拘禁反応)
さて、最後に拘禁反応について述べよう。今、多くの人が家にいることを求められている。24時間家族が一緒に暮らしている。そこでさまざまな問題も発生しているようである。
精神医学の領域で拘禁反応と呼ばれるカテゴリーがある。これは受刑者や囚人などが見せる精神症状のことである。拘禁反応の知見は外出自粛を求められている家族に、そのまま当てはめることはできないかもしれないけれど、多少とも参考になるものがあると思う。ただ、僕は司法精神医学にはそれほど通じていないので、拘禁反応に関して僕が持っている知識に基づく僕の個人的な見解と思ってほしい。
まず、拘禁反応は大雑把に爆発反応と逃避反応に分けることができそうである。さらに、行動化を伴うものと非行動化(精神化)のものとに分けることができそうである。もちろん、この分類は便宜上のものであって、爆発反応と逃避反応ならびに行動化と非行動化とは明確に線引きできるわけではなく、その中間領域とか両者の混合状態などもある。そこは押さえておきたい。便宜上区分しているだけである。
さて、爆発反応とは、要するに、キレるなどの反応である。些細なことで急に激怒したりするわけだ。その他、自暴自棄的な行動、衝動的な行動も含めることができる。行動化は暴力などに至るし、非行動化は慢性的な不機嫌など態度や雰囲気、表情などとして出ることもある。
一つ重要な点は、キレるというと突発的な現象のように見えるのだけれど、実際にはその準備が整って初めて生じる現象である。キレる以前にキレる準備態勢が整っているわけだ。
では、その準備態勢とは何か、キレる前段階にどういうものが来るかである。例えば、過労・疲労感とか頭重感が見られることもある。不眠など休養できないといったことも見られることがある。日常生活・食生活が乱れる(一定の規律を守れなくなるほど自我の統制力が弱まっている)こともある。さらに多幸感が見られることもあり、昨日まで上機嫌だったといった現象が見られることもある(感情が不安定になり、一定に感情が維持できないとか、苦しいことに対して躁的に防衛しているためである)。
従って、いつもと違う不調に注意しなければならないわけである。前段階のうちに対処して、キレる準備が整わないようにすることが重要で、それは本人だけでなく、周囲の人も気をつけてあげるとよろしいかと思う。
次に、逃避反応とはうつ状態とか無気力状態として見られるものである。行動化する場合、禁止されているのにレジャーに行くとか、移動が制限されているのに遠方まで旅行するとか、そういう形で顕在化すると思う。中でも怖いのは敢えて危険なことをするという場合もあるということだ。現在の生活状況から逃げるために病気になる(ここではコロナに感染する)、そういう危険を冒すかもしれないのである。
逃避反応にもその前段階を認めることができると思う。例えば、それ以前に状況に過剰適応していたりするかもしれない。人に甘えだす(退行)といったことが見られるかもしれない。その退行は慢性的に不満を言うとか、要求がましくするとか、駄々をこねるとか、そういう形で現れるかもしれない。いずれにしても、普段のその人には見られない現象が生じた場合には注意が必要であると僕は考えている。
爆発反応にしろ、逃避反応にしろ、その前段階で手を打つ方が望ましいわけであり、これは当人だけではなかなか気づけない部分も多いので、一緒に生活する者同士がお互いに相手をよく見てあげる必要がある。そして気づくことがあれば、早めに相手を休ませてあげる(外出等の行動制限があるために他にできることが限られるからである)方がいいと僕は思う。
うつや無気力になっているなら、休養が大事であるが、何かをする場合でも一緒にやってあげる方がいい。一人でできることを二人でするわけだ。そうしてうつや無気力を深刻化させないようにも配慮しなければならない。
僕は今こそ「心の健康」ということが大事だと考えている。国のトップ連中が精神的に病んでいるように僕には見えるので、尚更、国民一人一人が精神的に健康でなければならない。家族内でも気を配り合いながら、支え合うこともできるので、家族成員がお互いに健康を維持していくことが望ましいと僕は考えている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)