4月14日(火):コロナ・ジェノサイド(24)~商売を分かってるか
休業要請もあって、高槻の町も今日は静かだった。開いている店は少なく、多くの飲食店がシャッターを閉めていた。20時頃歩いたけれど、まるで深夜の感覚だ。
休業しても補償は無いのに。それに政府は商売を知らない。政府の人間で、また都道府県の知事で商売をやっていたという人間がいるだろうか。休業と補償はセットであることは望ましいけど、店の損失はそれ以上なのだ。
例えば僕がお店をやっているとしよう。コンスタントに来店してくれる常連さんが10人いるとしよう。ここで3週間ほど休業する。その後、店を再開する。この10人は来てくれる。しかし、以前のようにコンスタントに来てくれるのはその内の6人くらいかもしれない。つまり、間が開くと店から離れる常連が生まれるわけだ。
従って、店舗が休業するというのは、政府の面々が考えている以上にハイリスクな決断なのだ。お店側がリスクを覚悟の上で休業に踏み切るのだ。そのリスクを政治家は理解できないだろうと僕は思う。
夜の店を休業すれば感染は抑えられるかもしれない。しかし休業後、客は戻ってこないかもしれない。店は政府の要請に応じた。店のリスクに政府はどう応じるのだろうか。補償以上の対応ができるだろうか。
さて、今回のコロナ騒動で僕は世の中が少し問い直されるといいなと考えている。それは4つの方面での問い直しである。
(資本主義の問い直し)
働くことは、本来、素晴らしいことである。労働は美徳である。働くことが幸福につながる。こうした見解を僕は否定しない。あまり労働を理想化してもいけないんだろうけれど、働くことはいいことだと思う。
しかしながら、こうした見解が資本主義に利用されるのを僕は好まない。こういう見解は資本家にとって非常に都合のいい見解であると僕は思う。
コロナ・ジェノサイド(と僕は呼んでいる)は労働者に一番の責め苦がもたらされると思っている。働く場が失われるのである。資本家も等しく損害を被ることは僕も否定しない。しかし、一番、被害を受けるのは労働者たちである。僕はそう感じている。
これを機に、労働者と資本家との関係の在り方が再検討されるといいと僕は考えている。
(社会の問い直し)
次に問い直されるといいのは社会である。僕たちが生きる社会である。
社会とは、それを構成する個々人の成熟の場である。それは身体的な成熟と精神的な成熟の双方を含む。そして、それらの成熟の可能性を確保されていること、個々人が生きることのできる場になっていることである。良い社会とはそのようなものではないかと僕は思う。
成熟を実現するか否か、あるいは、成熟を目指すか否かということは、確かに、個々人に委ねられていることだ。社会はそれを決定しない。ただ、社会がそれを実現できる場になっているということが重要なのだ。
生きることを阻み、成熟の可能性に開かれていない社会は良くない社会である。
(注:この後、倫理の問い直しと生の問い直しとが続く予定であったが中断する。書くのが面倒になってきたからである)
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)