4月11日(土):コロナ・ジェノサイド(22)~夜の街クラスター
事業の休業と補償はセットでと言われているが、大阪府は敢えてセットしないという。補償するだけの余裕がないのだ。補償なしの休業要請が出されることになった。異例なことであり、不公平な世の中である。
このままでは、結局、地方は損だったってことになりかねない。政府はしばしば地方再建をアピールしていたけれど、今やっていることは逆効果である。そもそも、7府県にだけ緊急事態宣言を出すということ自体おかしなことである。全国に出さなければならない。首都圏も地方も等しく危険なのだから、等しくやらなければならないのではないだろうか。
それで近頃脚光を浴びているのが夜の繁華街だ。バーとかキャバクラとか、そういう接客飲食業がやり玉に上がっている。同じように、普通の居酒屋への風当たりも強くなっている。お酒の提供は19時までで、20時には閉店って、それじゃ営業できない。居酒屋なんて、大抵、夕方の17時頃から開くのだ。実質2時間の営業しか許されないということじゃないか。それなら営業休止を求めた方がいい。
それで、夜の仕事、水商売に対しては差別的なニュアンスが感じられるかもしれない。しかし、ここはよく考えなければならない。最初は施設だった。スポーツジムとか、その他美術館だの図書館だのといった施設だった。その後、カラオケやライブハウスなどへ。そうして順次休業要請の範囲が広がってきて、今、水商売にその波紋が広がってきたのである。そういう見方をすると、別に水商売だけを特別差別しているということにはならないだろうし、最初に全業種に対して休業を求めなかった政府の対応の拙さが問題となる。
差別的なニュアンスが感じられるのは「夜の街クラスター」だ。人が集まれば、そこは感染源となる。それは夜の世界でも昼の世界でも変わらない。夜の方がウイルスが活発になるとかいうわけではないだろう。どうして夜の街ってことがことさら強調されなければならないのかである。そこには、夜の街に対する人々の感情が投影されているように思う。まあ、それは別の話なので置いておこう。
もし、僕が感染するとする。それでここ二週間の僕の行動を振り返る。宴会なんかのイベントはよく覚えているだろう。しかし、日常のちょっとした買い物なんかは、そんなに詳しく覚えていないだろう。
つまり、宴席は感染源になることもあるだろうが、感染源として想起しやすいということもあるだろう。宴会の前に立ち寄ったコンビニで感染したかもしれないし、宴会後の〆のラーメン屋で感染した可能性だってある。帰宅時のタクシー乗り場の行列で感染した可能性もあり得る。感染した日は特定できても、感染した場所は確定できないのである。
さて、僕が疑問に思うことがある。疑問というか、誰かそういうことを調べてくれないかなと考えている。
感染の場にいたとしても、感染する人としない人とがある。宴会に出席した人の全員が感染しているわけではないようだ。人の集まる場に出て、感染しなかった人もある。感染した人だけが注目されてしまうのだけれど、感染しなかった人たちももっと注目されてよいかと思う。
どうしてある人は感染の危険性の高い場に臨んでいながら感染しなかったのか。何があるいはどういう行動が感染と非感染とを分けたのか。そうした研究がなされてもいいかと僕は思う。
何よりも知りたいのはパーソナリティである。その違いがあるかどうかである。どういうパーソナリティの人が多く感染しており、どういうパーソナリティの人は感染が少ないか、もし、そういう違いがありそうなら研究してほしいところである。
また、血液型によっても違いがあるようなら研究してほしいところである。もっとも、こちらはあんまり僕の興味を惹かないんだけれど。
最後に志村けんさんのことにも触れておこう。子どもの頃はドリフの番組をよく見たものだった。全員集合も面白かった。当時、何かと批判も多かったのも覚えている。低俗だとか、教育に悪影響だとか、何かと叩かれることも多かった。
ドリフの後もコント番組、バラエティ番組に出続けた。「バカ殿」なんて最高だと僕は思っている。殿様がバカだったらアカンやろうって思うのだけれど、そういう設定なのだ。そして「バカ殿」の「バカ」を表現するのが白塗りのあのメイクだ。誰がどこから見ても「この殿はバカだな」と分かるようなキャラがお見事だ。まあ、テレビでバカ殿やっても観ないけど。
志村けんさんの死は、新型コロナによる死亡者に個人の感覚を与えた。マスコミの報道は、死者何十人といった数字で表示される。一人一人の個人としてではなく、数字として僕たちはその報道を受け取る。
一般の人、若い人の危機感が低いと言われるけれど、そういう報道の仕方も関係があるかもしれない。死者何十人と、データとして受け取る限り、その重みは伝わらないかもしれない。その数字を構成している一人一人の個人が感じられない限り、なかなかそれを自分に関係づけること、つまりそれが自分にも関係のある問題であると自覚することも難しいかもしれない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)