4月6日(月):コロナ・ジェノサイド(18)~失われた一か月、他
今日はもう一本書いておこう。コロナ騒動に関して残しているメモをすべて書き残しておこう。
(失われた一か月)
さて、コロナ報道が始まったのは2月の最初頃だったと思う。その頃は中国の武漢を、それこそ対岸の火事を眺めるような気持で見ていた人も多かっただろうと思う。
その後、クルーズ船の件が持ち上がる。政府の対応は実に頼りないものであったけれど、日本はサーズやマーズのような感染症を経験していないから仕方がないと思えるところもあった。
その後、検査の充実を求める議論が続いた。検査体制が整っていないことに危機感を覚える識者たちも大勢いた。
しかし、結局のところ、僕たちは1か月失うことになったのだ。3月を失ったのだ。今回のマスク配布の対策も1か月前なら意味があったというようなことも言われている。非常事態宣言の議論も1か月前になされていてよかったものである。
なぜ僕たちは3月の一か月間を失ったのか。オリンピックのせいである。Tokyo2020は悪夢以外のなにものでもない。
(検査の滞り)
検査は相変わらずなされない。検査体制が整えばもっと検査件数が増えるものと僕は期待していた。そして、希望する人は皆検査を受けられるようになるという希望を抱いていたが、儚い期待であった。
コロナに感染した芸人さんがいる。その人の関係者の言葉であるけれど、検査を受けるのに相当粘って頼み込んだという。そこまでしないと検査って受けられないのだ。
もし、検査が受けられないのが、検査者の数が多すぎて順番待ちのためということであれば、僕はまだ許せる。しかし、検査を受けた人の数はまったく少ないのである。検査が回避されているがために検査が受けられないだけのことだ。
一応、医者が判断できるようになった。保健所等の機関は検査を阻む。要するに、患者は病院と検査機関の間を虚しく行ったり来たりするだけである。検査を受けられる人は幸運である。
(呪わしいオリンピック)
検査が渋られるのはオリンピックのためでもあった。感染者を多く出した国にしたくないという思惑があったようである。オリンピックのために国民が犠牲になるわけだ。そういうことが平気で出来る政府なのである。
来年、もし、オリンピックが開催されれば、僕は今の悪夢を再体験することになるだろう。必ず忌まわしい記憶とともにオリンピックの報道を聴いていることだろう。もっとも、その頃まで僕の命があればの話であるが。それまでに感染して人生を終えている可能性も高い。
(否認)
政府は専門家を交えて会議していると言う。専門家会議に出る専門家なんて政府のイエスマンばかりなんだろうと僕は信じていた。
ところが意外にも、専門家はまっとうなことを言っている場合も多いようだ。専門家がそう言っているのに政府が否認しているようだ。なんのための専門家か。
(拘束なき宣言)
非常事態宣言を出すという話はしばらく前からなされていた。一般の人、並びに芸能人とか文化人とか呼ばれるような著名人も非常事態宣言の発令を訴えていた。言い換えれば、国民が声を上げているのに耳を貸さないというわけである。これが今の日本の政治である。
しかし、非常事態宣言を出したところで、何も変わらないのだろう。この宣言自体になんらの拘束力がないのだったら。
(若者批判)
一部の若者もタチが悪いけれど、若者批判もそれなりにタチが悪い。
京都産業大学の学生が卒業旅行でヨーロッパに行く。そしてウイルスを持ち帰ってしまい、いくつかの集団感染(クラスターなどといった言葉は使わない)を引き起こしてしまったという。
この学生たちは悪いことをしたわけではないのだ。彼らが海外旅行した時、まだ渡航禁止令は出ていなかった。彼らは法的に許される範囲での行動をしたまでである。しかし、まあ、その後に関しては彼らの活動で擁護できない部分もあるんだけれど。
それはともかくとしても、元凶は検査の不十分さにある。まず、検査をしっかり行って、早い段階で海外渡航を禁止しておけばよかったのである。帰国後も真っ先に検査を行わなければならなかった。そして二週間は隔離しなければならなかったのである。
彼らが軽率である部分も確かにあることはあるけれど、すべてを彼らの責任にするわけにもいかない。政府の対応がまともでないからそういう事態を招くのだ。これも失われた一か月の間の出来事なのだ。
(共感能力の欠如)
若者は活動範囲が広いから感染を拡大させる危険があるという。この理屈は僕には異様に聞こえる。確かに若者はエネルギッシュに活動するだろう。また、卒業とか就職シーズンということもあって活動の機会も増えるかもしれない。
しかし、中年も年寄りも同じように活動するのだ。活動範囲が広いのは交通機関のおかげである。
それに活動や移動そのものが禁止されているわけではないのだ。それは今も変わらずである。禁止されている行為を彼らがしたということであれば批判されるのも分かるが、そもそも禁止されていないことをやっているのである。
それよりも、感染した若者たちを可哀そうに思わないのだろうか。若くして感染してしまい、生命の危険にさらされてしまうことを気の毒に思わないのだろうか。若者を批判する中年連中の方が異常である。
個人名を出すのは控えたいんだけれど、すぐにバレてしまうので敢えて出すんだけれど、小池都知事の言っていることに、そういう同情心を僕は感じられないのである。若者にあなたがたが危険だから外出するなというメッセージしか聞こえないのだ。あなたがたが命を落としたら悲しいから外出しないでとは決して言わないのだ。
都知事だけに限らず、その他の都道府県知事もそうであるし、政治家連中もそうなんだけれど、共感能力が著しく欠如しているように僕には見えるのだ。
そろそろ書くのに疲れてきた。給付の話に関しても共感能力の欠如が著しく見られるという話をこの後は展開する予定だったのだけれど、こんなことを言っている自分にも嫌気がさしている。
みんな大なり小なり痛みを経験しているのだ。それは職業に関係ないのである。しかし、この業種の人は助ける、あの業種の人は助けられませんということをやっているのだ。同じく、こういう人は助けます、ああいう人は援助の対象外になりますということをやっているのだ。
そして、これは政治家だけの話ではないのだ。一般の人たちも同じなのだ。あの人たちは正しい、あいつらは間違ってるといったことをやっている点では同じなのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)