4月3日(金):コロナ・ジェノサイド(15)~愚国
第二次大戦の頃、それもかなり後半の時期のことだ。当時の日本軍は新たな銃を開発した。通常の拳銃は中に弾丸を入れるのだけれど、その新兵器は液体を入れるのである。そう聞くと、ガソリンか何かを入れて小型の火炎放射器のような武器をイメージする人もあるかもしれない。
この新兵器の銃の使用方法は次のようなものである。まず、こっそりと敵兵の背後に忍び寄り、敵兵が振り向くや、すかさず敵兵の顔に水を打つ。そして敵兵が狼狽しているところを刀で刺す。なんてことはない、ただの水鉄砲じゃないか。同じころ、アメリカでは原子爆弾が製造されていたというのに、日本では水鉄砲程度のものしか開発できなかったのだ。
この兵器の話は「ヒッチコック・マガジン」で読んだものである。正確な出典は忘れてしまったけど、同マガジンのGUNコーナーあたりで読んだのは確かだ。
政府が布マスクを各世帯につき2枚ずつ配布するという案を出した。それを聴いた時、なぜか上述の水鉄砲を真剣に開発した当時の日本軍がオーバーラップしてきた。明らかに愚策なのに、やってる当人たちは大真面目だ。
第二次大戦時は日本には資源がなかった。それで新兵器の開発もままならなかったのだろう。それに、日本には新兵器を作るだけの力があるということを見せることで兵士たちの士気を高めるといった思惑もあったかもしれない。いずれにしても、苦肉の策を通り越して、愚策としか言えないような代物だ。
今回の「アベノマスク(と言うらしい)」も、状況は異なれど、同じ構図ではないだろうか。もはや政府には何もできないのだ。それでいて国民の安心を高めるという思惑だけはあるようだ。苦肉の策を通り越して、愚策としか言えないような代物だ。
布マスクではなくサージカルマスクを、一世帯二枚ではなく一人二か月分を配布するというのであれば、まだ許せる。一か月分の30枚でもまだいい。効果のないことが明らかになっている布マスクをたかだか二枚もらったところで、一体、何ができるというのか。無意味である。
それより、僕が怖いと思ったことがある。それを聴いた瞬間、僕は背筋に冷たいものが走った。
首相に耳打ちした人がいる。大臣か首相の秘書か、何かそういう立場の人であるらしい。この人が言うのである。「マスクを配布すれば国民の不安がピタッと消える」と。
実際にはどういう言葉遣い、どういう表現がなされたのかは不明であるけれど、報道によれば、そういう内容のことを首相に伝えたということである。一応、報じられたものをそのまま信用することにする。
さて、この人の言葉の何が恐ろしいかである。他の人たちはどうか分からないけれど、僕は非常に違和感を覚えた。この言葉を支配している思想は「国民操作」である。僕はそれを感じるので恐ろしいと感じたわけだ。
微妙なニュアンスの違いだけれど、国民のためにこれこれのことをしようと言うのと、これをすると国民がこうなる(あるいは、国民をこうするためにこれこれのことをしよう)と言うのと、少し考えてみれば後者がいかに操作的であるかが分かるかと思う。
僕に言わせると、国民はもはや政府が守る対象ではなくて、政府が操作する対象なのだ。
僕も含めて、日本の国民は肝に銘じておく方が良いと思う。僕たちは助けてもらえないと。政府に期待しても裏切られるのがオチだと僕は感じている。
もし、国民を守るという思想であれば、外出禁止命令を出しているだろう。企業や商店も営業を禁止することだろう。それでも政府が出すものと言えば、自粛であり、その要請である。実に巧妙である。
例えば、外出自粛要請を受けて、僕が職場を閉めたとする。臨時休業したとしよう。その分の補償を政府に求めても、政府はこう言えるのである。「休業したのはあなたの自己判断でしょ、国が命令したわけではないでしょ、だから国はあなたに補償する義務は負わないですよ」と。休業なり、営業短縮なりをしたとしても、それはこちらが勝手にやったことであって、国が命令したことではないのだということで逃げることができるわけだ。
もう一つ巧妙なのは、地方自治体が間に噛んでいるということだ。地方自治体の要請を受けて休業したのだと訴えたとしても、それならあなたと地方自治体との間で何とかする問題でしょ、と言えるわけである。
今の政府を見ていると、まず補償の案は期待できない。いや、期待してはいけないのだと僕は思っている。財政が無いのだ。だからできるだけ補償はしたくないのだ。国民に補償するくらいなら国民に感染拡大する方がましなのだ。そして感染拡大の責任は国民にあるということにできる。つまり、外出自粛要請を守らないからだという話にすり替えることも可能である。
アベノミクス、アベノマスクに続いて、僕たちはアベノミス(安部の神話)の一部になってしまうことだろう。国民の反感、要請無視に遭いながらも国民のために尽力した一総理の神話に僕たちは付き合わされているようなものだ。僕にはそんな感じしか受けない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)