2月27日(木):コロナ・ジェノサイド(3)~民の切り捨て
昨日に引き続きコロナ騒動について思うところをのものを書き残しておこう。
テレビ番組で繰り返し言われていることは検査の充実である。民間の検査機関をもっと活用しようと呼びかけているのだが、政府の言うところでは民間の検査機関はレベルが低いということらしい。
僕にはこのレベルの高低ということが理解できない。何か審査基準みたいなのがあって、民間の検査機関はこの基準を満たしていないとか、何かそういう事情があるのだろうか。もし、あるとすればそれを提示してもらいたいものである。そして、その基準とコロナウイルス検査とに相関性があるのかどうかも示してもらいたいところである。
テレビでは民間の方がむしろレベルが高いと言っているんだけれど、僕は首肯できる気がしている。だからと言って公的機関がレベルが低いとも言わないんだけれど。
問題は、同じようなことをしている機関なのに、一方は良くて他方がダメであるという思想である。この思想の根底にあるものが問題であるように僕は思う。
もし明確な基準なり資料なりが存在していないならば、こういう思想は単に差別思想なのではないだろうか。個人的にはスプリッティングしていると言いたいところなんだけれど、それは脇へ置いておこう。
そして、差別思想が根底に横たわっているとすれば、差別されているのは民間の方である。官民のうちの民の方である。民はレベルが低いからということで切り捨てていることになっていないだろうか。
必要性よりも優劣が先行していることになってしまうように僕は思うのだけれど、これは実は重篤な心の病である。現実自我が機能していないことになるからである。
僕は今の日本の状況は極めて精神病的であると感じている。感染者が少ないというデータも、検査が実施されていないからそうなるのに過ぎないのだが、政府はそこを取り上げないというのではなく、政府の人たちの心の中で否認の機制が働いているのではないだろうか。
早期に検査を実施した方が、それで早期に発見した方が、むしろ医療崩壊を防ぐと僕は思う。武漢で病院が機能しなくなりそうな場面があったが、あれは患者が一斉に詰めかけたためである。それはそれで武漢の状況があったのだから仕方がなかったところもあるだろう。徐々に検査をして、少しずつ患者が発見されていけば良かっただろうにとも思う。日本は武漢に学んだ方がいいのだ。
やがて医療崩壊、経済崩壊が起きるだろう。多くの人命が失われることだろう。病気だけでなく、自殺も増えるかもしれないし、暴動や犯罪も生まれるかもしれない。僕の言っていることは、人によっては、妄想のように聞こえるだろうと僕は自覚しているんだけれど、僕たちが平和幻想から抜け出す必要があるということは賛同してもらえるのではないかと思っている。
いずれにしても民間は見殺しにされる。政府はそれをしたくてするのではなく、無能だからその事態を許してしまうのである。そして、政府が無能であるということは、政府の自我(これは個人に喩えて言うのであるが)が機能していないからである。僕はそう思うので、民はいくらでも切り捨てられ、否認されることになるだろうと考えている。
オリンピックは即刻中止しなければならない。必要な予算を確保しなければならない。国会が議論しなければならないことは、桜を見る会ではなく、日本の壊滅を防ぐということだ。このままでは日本人は生き残れない。一部の官だけが生き残る国になる。ドクター・ストレンジラブの理屈が現実になりつつあるのかもしれないのだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)