2月17日(月):占いに惑わされるなかれ
明日は火曜日で休みだ。休みの前だから少しくらいお酒を飲んでもいいだろう。ということで、夜は飲みに出る。まあ、いちいちそんな理由づけをしなくても、飲むときは飲むんだけど。
それでいつものバーに行く。店の人並びにお客さんで顔見知りの女性たちがいた。しかしまあ、女子ってのはどうしてああも占いが好きなんだろうねえ。以前もそういうことがあったけど、今晩も占い談義に花を咲かせることになった。
今回やったのは姓名判断と誕生日占い。僕は彼女たちに占ってもらう。と言っても、彼女たちは占い師ではなくて、つまり、占いのサイトを使って僕の占いをやってくれたというわけだ。
最初の姓名判断ではずいぶんひどい内容のものが出てきた。凹むほどの内容だ。ところが、それは彼女たちも同じなんだな。次に、誕生日占いをやってもらった。案の定、悪い内容のことばかり述べられている。これまた彼女たちもそうなんだな。
僕は試みに架空の名前で登録してみた。すると、架空の人物の鑑定結果がちゃんと出てくる。占いとはそういうものだ。
それはさておき、これが一人だけでやっていたら気づかなかったかもしれないんだけれど、みんなでやっているとよく見える。それはテクニックなのだ。先に地獄を見せて天国を提示するやり方なのだ。だから彼女たちにも凹む内容のものが記載されていたのだ。
地獄を見せて天国を売るのはCMの典型的パターンである。例えば、あちこちの間接が痛む。それで生活に支障をきたす。でもこのサプリを飲むと、痛みがなくなり、生活がずっとやりやすくなった。そのようにしてこのサプリを売り込むわけだ。先に地獄を提示する方法である。
先に地獄を提示されるとついつい最後まで見てしまうのである。僕の個人的な体験なのかもしれないけど。そして、最後に天国が提示される、つまり、地獄の状況が改善される、そういう場面を見ることで安心感のようなものを得る。分かりやすく言えば、快感が得られるわけである。
占いも同じことをやっているに過ぎない。最初に救いようのないことを知らせておいて、最後に救いを提示するわけだ。読み手はそれで安心を得るし、それが快感になったりするかもしれない。
しかし、間違えてはいけない。その不安は人為的に生み出されたものである。つまり、地獄を提示されたことによって生じた不安なのである。それを最後で解消されたとしても、もともとその不安は当人にはなかったものである。
さて、占いというものは百害あって一利なしと僕は考えている。
さっきも言ったように、架空の人間でも占うことができるのだ。実在しない人間の占い鑑定がどうしてできるのか、そこは最大の謎であるが、ここでは不問にしておこう。
占いの鑑定というものには、何よりも、個人が抜けているのである。その人のパーソナリティを抜きにして、さらにはその人の歴史や経験を抜きにして、誕生日や名前の画数だけで個人のことに言及する(正直に言えば、決定する)のである。ここに一番の問題があるわけだ。僕にはひどく暴力的な行為であるように映る。
これを読んでくれている人にも申し上げておきたいのだけど、くれぐれも占いに惑わされることのないようにお願いしたい。
もし、僕の人生が僕の誕生日だけで決まるのであれば、僕は生まれてくる必要はなかったのである。人生がそれだけで決定されているのであれば、今も生きている意味なんてないのだ。最初から運命が決定している人生なんて、本当に生きる価値のある人生だろうか。僕が僕の人生を決定できるからこそ、僕は生きる意志が持てるのだ。
まあ、呑み屋でワイワイ、キャッキャッ言いながら見ている分には構わないんだろうけどね。それでも、そこで当人がどれだけ影響を受けているかは不明であるので、あまり楽観視もできないかな。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)