3月16日:飲酒欲求と闘いながら

3月16日(金)飲酒欲求と闘いながら

 

 疲労感に満ちた一日だった。この疲労感は心に葛藤を抱いているためである。そう、飲酒欲求との戦いのことである。

 この飲酒欲求、昼間は顔を出すことはない。夕方辺りから、僕の中でそれが頭をもたげてくる。そして、夜は特にそれが顕著になる。

 昨晩は京都の木屋町周辺を歩いた。卒業シーズンのためか、団体で歩いている人が多かった。皆、多かれ少なかれ酩酊している。仲間に担がれている人もいた。何もあんなになるまで呑まなくてもよさそうなものなのに、僕は少し気の毒に思った。ああいう姿を見ると、やはり酒は呑まなくて正解だなと思う。しかし、一方では呑みたいという欲求が高まっている。昨夜はあの人混みで呑みに行く気力も失せた。そうでなかったら、かなり危ういところであった。

 家に帰って、寝てしまうと、諦めがつくのか、もう酒のことは考えなくなっていることに気づいた。夜は早く帰って、速やかに寝てしまうに限るのかもしれない。

 酒気帯び運転による事故をニュースで見た。はやり酒の方が害悪が大きいと、僕は再認識した。タバコではそのようなことは起こらないからだ。タバコの場合、火の不始末で小火を出す程度である。大きな火事になったとしても、数の上では飲酒運転による事故に比べれば遥かに少ないのではないかと僕は考えている。

 Yさんのためにもタバコは止めようと思っているのだけど、お酒でそれだけ我慢しているのだからタバコまで取り上げるのは酷だとYさんは言ってくれている。そのYさんの言葉に甘えて、禁煙の方はあまり真剣に取り組んでいない。よろしくないことである。喫煙も飲酒も、僕の場合、根は一つだと思っている。ただ、酒の方が根が深いということは言える。酒に比べるとタバコはもっと後になってから始めたものである。それまでタバコなしで生きてきたのであり、その記憶がまだしっかりある。だから禁煙の方が容易であるはずなのに、今の僕にはそれが難しい。

 取り留めなく綴っているが、これを書いている今も飲酒欲求が活動しているのを感じている。こういう時にYさんに居て欲しいと思う。一人で耐えることが耐えられない時があるからなんだ。

 ソワソワしながら書いている。まとまりのないものを書いているなあと自分でも思う。でも、これを書いている間は飲酒しないということが分かっている。だからダラダラと書いて、飲酒を引き伸ばそうとしているのだ。この間に飲酒欲求が鎮まってくれればいいと思いながら。

 こういう時、一つのやり方は、酒飲みの知人を思い出して、自分は彼らとは違うのだということを自ら言い聞かせることである。しかし、僕が酒呑みの人に怒りをぶつけることほど理不尽なことはない。なぜなら、酒を呑み続ける人よりも、断酒している人のほうが偉いからである。優位にある人が劣位の人に腹を立てるなんておかしな話なのである。でも、ごく少数の酒呑み知人に対しては、彼らを思い出すと酒なんて絶対呑むものかと思えてくるから不思議である。矛盾しているように見えるかもしれないが、そういうのが案外役に立っているのである。

 ああ、今日もなんとか持ちこたえそうだ。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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