3月14日(水)Yさんの一言
「こんなに幸せでいいのかしら」
昨日の「遠足」でYさんが洩らした言葉である。この言葉ほど僕にとって嬉しいものはなかったよ。それに対する僕の答えはこうだ。「そんなに幸せでいいのだ」ということである。今日のこのブログは、昨日一日付き合ってくれたYさんに語りかけたいと思う。
僕は仕事柄、幸せではない人たちと会っている。クライアントたちのことだ。クライアントは誰一人として幸せを体験している人はいないのだ。幸せを感じた時に、自分にはその権利がないと、その幸福を否定する人たちもいる。「うつ病」と診断される人たちのことだ。
幸せを感じると不安になる人たちもいる。極めて「神経症」的な人たちのことだ。なぜ不安になるかというと、いわば「去勢不安」が働くからなんだ。それは分かりやすく言えば、「幸せになると将来罰が当たる」っていう不安なのだ。だからそういう人たちにとって幸福感は体験されてはならない感情になる。
また、幸福感をありのままに体験していたとしても、それが他人の多大なる犠牲の上に成り立っている幸福であったり、自閉的(これはつまり自己内閉的であり、孤独で独りよがりという意味合いの言葉である)な幸福だったりしている場合もある。これも本当の意味で「幸せ」ではないことなのだ。ただ「快適」なだけなんだと僕は思う。
僕たちは昨日何をしただろう。確かに予定を組んで行動はした。でも大半はただ一緒にいたということに尽きるのではないだろうか。そして、一緒にいることで、同じような幸福感を僕も感じていた。幸福を感じる時は充分に感じ、全身で体験することに尽きると僕は考えている。それができない人たちがクライアントとして訪れているのだと考えてもいい。そして、一層望ましいことには、その幸せ感はお互いに共有されている感情でもあるということだ。誰をも犠牲にせず、独りよがりにもならない幸福だったと僕は思う。つまり、とてもいい形で幸福体験ができていたように僕は感じている。
それと、相手とケンカできないというクライアントともよく会う。大抵はケンカすると相手と関係が切れてしまうって恐れている。でも、人間関係にはケンカも付き物なのだ。僕たちもいつかはケンカの一つくらいはしてしまうかもしれない。肝心な点は、ケンカをしないようにお互いに避け合って生きることではなくて、ケンカをしても切れない関係を普段から築いていくことの方が大切だと僕は考えている。昨日、僕たちは一緒に幸せな感じを体験しただろう? それの積み重ねが大切なんだと僕は思う。ケンカをしてしまった時に、こういう体験があるということが本当に大切なことなんだって、Yさんにも分かる時がきっと来ると僕は信じている。
僕の目指す生き方はこういうものなんだ。幸福感を体験している時は、全身全霊でもってそれを体験することなんだ。同じように、食べる時には味覚だけになり、音楽を聴く時は耳だけになり、セックスする時には全身を性器にしてすればいい。笑う時は腹の底から笑い、悲しい時は存分に泣く。不安がある時はその不安に、修羅場を潜り抜ける時は全力でそれに当たる。そこには自己欺瞞なんて少しもないだろう? 子供のように素直な生き方だと思わないかい? そして僕たちはそれらを誰をも踏みにじることなくやり、そして自分自身を喪失することもない。
世界は本当は否定も肯定もないもので、プラスもマイナスもないものなんだ。本来何もない所に、僕たちはそういう評価を持ち込んで人生をややこしくしてしまうということをやりがちなんだ。「こんなに幸せでいいのかしら」っていうのは、そこに評価を持ち込んでいるということではないかな。幸福感を体験している時は、それに全く身を任せても構わないことなんだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)