<テーマ69>失錯行為(1)
(69―1)ある父親の聞き違い
(69―2)失錯行為
(69―3)父親の聞き違いについて
(69―4)ある男性アナウンサーの例
(69―5)かつて自衛隊員だった男性の例
(69―6)私自身の例~営業マンとの会話の中で
(69―7)自己理解の一手段としての失錯行為
(69―1)ある父親の聞き違い
ある日曜日の朝のことでした。私は出勤のため電車に乗っていました。向かいの座席に親子三人が座っていました。どこかへ遊びに行くところのようでした。
ある駅で電車が停まりました。信号待ちだったか特急通過待ちだったのか覚えていませんが、電車はそこで少し足止めを食うことになりました。
その時、向かいの座席の子供(小さい女の子でしたが)が「閉まんない」と呟きました。それを聞いた父親は「つまんない?」と声かけたのでした。私は思わず「にんまり」してしまいました。
この父親の行為はいわゆる失錯行為であり、父親は娘の言葉を聞き違えたのであります。娘は電車が停止して扉が「閉(し)まんない」と言っており、私もそれははっきり耳にしたのです。しかし、父親はそれを「つまんない」と聞き違えてしまったわけであります。
(69―2)失錯行為
フロイトにはこういう人間が日常何気なくしてしまう失錯行為についての研究があります。「日常生活の精神病理」という本としてまとめられ、フロイトの生前ではもっともよく売れた本だというふうに聞いた覚えがあります。また、「精神分析入門」においても最初の四章にてこういう事柄を取り扱っていますので、興味のある方は読まれてみられたらよろしいでしょう。そして、この研究は、Freidian slipという言葉を生み出すほどポピュラーなものになったのでした。
フロイトは、このような人間がうっかりしてしまう失敗に対して、そこに無意識的な力が働いているということを論証していったのです。そして、一見無意味に思われる失錯行為でも、当人にとっては意味があり、それは神経症を生み出すメカニズムと同一のものであるということを論じているわけです。つまり、こうした失錯行為もまた「心の病」として捉えているのです。
(69―3)父親の聞き違いについて
先に挙げた電車の中の父娘の例において、私たちはこのような推測を立てることができるのです。つまり、父親はせっかくの日曜日を家族サービスで費やすことになって「つまんない」と思っているのだろうということです。
もう少し丁寧に述べるなら、この父親は日曜日に家族サービスすることに対して、多少なりとも不満を感じていただろうということです。日曜日はゆっくりしたいと父親は願っていたかもしれません。でも、家族サービスもしなければならないし、子供も喜んでくれるならそうしたいという気持ちも一方ではあるとします。両者の感情、願望は相いれないものなので、父親の心の中で葛藤をもたらします。失錯行為はこの葛藤の所産であるということです。
もちろん、外側から推測できる事柄は必ずしもこの父親自身の体験しているところのものとぴったり一致するとは限らないかもしれません。でも、あながちその推測は当たらずとも遠からずといったところではないかと私は思います。
(69―4)ある男性アナウンサーの例
失錯行為に関しては、これは観察してみるととても面白いので、読まれている方も、自分自身や周囲の人の失錯行為に目を止めてみられればいろんなことが分かるかと思います。私が収集したいくつかの例を挙げることにします。
朝、出勤の準備をしている間、私はテレビのニュースを聞いているのですが、ある時、アナウンサーがやたらと言葉を噛むのに気づきました。
昨年(一昨年だったかもしれません)の三月頃のことでした。毎朝、そのアナウンサーの声を聴いてきたのですが、これだけ言葉を噛むのは彼には珍しいことだなと、その時、私は思いました。
興味を持って、しばらく画面を見ていると、ニュースの終わりにこの男性アナウンサーは、番組改編のためこのコーナーが終わること、そして彼が降板することを述べました。そして、長くご視聴いただいてありがとうございましたとカメラに向かって頭を下げるのです。
私は頷けるように思いました。彼にとってその日のニュースが、その番組での最後の仕事になったのです。そして、言葉を「噛む」とはなんとも象徴的だと思いますが、彼は番組の改編と自身の降板に対して、少なからず不本意であったのだろうと私は推測します。
彼はそれに対して抗議したかったのかもしれません。言葉を「噛む」ということで、彼は自分の怒りを「噛み」殺し、同時にこのような改編をした制作側に対して「噛みつき」(攻撃)たくなっていたのかもしれません。もちろん、普段の彼ならこのようなことはしないのです。
このアナウンサーの例では、怒りの感情とそれを押さえようとする葛藤があったのだろうと私は思います。それが原稿を噛むという失錯行為として現れたのだと考えられます。
(69―5)かつて自衛隊員だった男性の例
私が以前よく通っていた飲み屋で、一人の年輩の男性と会話をしていた時のことです。その時、彼は若い頃の思い出を語っていました。なかなか波瀾に満ちた人生だったらしく、いろんな職種を転々としてきたようでした。若い頃のある時期、彼は自衛隊に入っていたと話します。自衛隊での生活がどんなものだったかということを彼は話しています。
訓練において、実際に銃を撃ったということを話していて、そこでピタリと彼の言葉が途切れたのです。それまで流暢に話していたのに、ここに至って、なぜか言葉が詰まるのでした。それで「えーと、あれは何て言ったっけな」と、しきりと何かを思い出そうとするのでした。
話題が銃器のことでしたので、私にはさっぱり分かりませんでした。私は彼が何を思い出そうとしているのか推測することもできず、また助け舟を出すということもできませんでした。彼が言いたかったのは、銃を発砲した後に、銃の中に残る残滓のことだったのです。それを何と呼んでいたかということが思い出せなかったのでした。
私はさりげなく「きっと何か嫌な思い出がそれに関してあるんでしょう」と言ってみました。すると彼は「そうそう、その通りやねん」と答え、次のようなエピソードを語りました。
当時、射撃訓練をした後、銃の手入れをしなければならなかったそうです。そして、手入れがきちんとできているかどうかを教官がチェックするのです。そのチェックをパスすると、夕飯にありつけるのでした。
しかし、その教官という人がとても厳しい人で、銃に少しでも残滓が残っていたら、もう一度初めから手入れをさせられるのでした。何度も何度も手入れのやり直しを命ぜられて、夕飯になかなかありつけなかったのだと彼は話しました。
銃の中に残ってしまう残滓に関して、そのことが彼の中では厳しかった教官に対する感情と結びついていたのでした。この苦痛な体験の記憶と結びついているために、彼はその残滓の名前を思い出すことができないでいたようでした。彼にとっては、それこそ思い出すのも嫌な体験だったのではないかと思います。
(69―6)私自身の例~営業マンとの会話の中で
私自身の例も挙げましょう。ある時、私は広告会社の営業マンと会っていました。この営業マンに対して、私はもう少し下調べをして、勉強してから来てほしいものだと感じて、内心ではイライラしていました。
その中で、彼は「寺戸さんは京都の人なのに、どうして京都ではなく、大阪の高槻で開業しようと思われたのですか」と問いかけてきました。私はそんな周辺的なことを質問しないで、もっと肝心な、本質的な部分を取り上げてほしいものだと思いながらも、彼の質問に答えていきました。
私は、まず、京都はこういう方面では激戦区であるということを彼に伝えました。そして、いろんな大学のグループが京都にはあって、「私が知っているだけでも、京都大学、佛教大学、京都学園大学、龍谷大学」とそこまで言って、はたと私の言葉が途切れたのでした。もう一つ大学名を挙げようとしたのですが、土壇場でこの大学の名前を私は忘れてしまったのです。
その大学へは私も行ったことがあり、その大学のキャンパスの光景まで頭に思い浮かんでおり、尚且つ、その大学に所属している先生まで知っていて、その先生の顔まで頭に浮かんでいるのだけど、どうしてもその大学の名前が出てきませんでした。
結局、その時は言葉を濁してごまかしたのですが、彼と面談している間、思い出そうとしてもついにその大学名が出てきませんでした。彼と別れてすぐに、私はその大学の名前を思い出したのでした。それは「文教大学」だったのです。
私は彼に対して、訪問する前に自分が訪れることになっている会社のことをもっと「勉強」してから訪問するべきだと思っていました。心の中ではそう思っていたのですが、それを表には出さないようにしていました。
つまり、「事前に『勉強』してから来てください」ということを飲み込んでいた(抑圧していた)のです。この言葉を飲み込んでいたので、類似の言葉にそれが影響を及ぼしていたのだと私は気づきました。
つまり「勉強(べんきょう)」という言葉を飲み込んでいたので「文教(ぶんきょう)」まで一緒に飲み込まれてしまったということです。
もし、この時、私の「抑圧」が不十分だったとしたら、私は「文教大学」と言うべきところを「勉強大学」と言ってしまっていたかもしれません。
(69―7)自己理解の一手段としての失錯行為
自分自身を理解しようとする際に、自分でしでかしてしまう失錯行為に注目するというのも一つの手段です。
失錯行為とは、度忘れ、言い間違い、書き間違い、聞き間違い、勘違いや思い違い、うっかりミスなどのことであります。また、いくら暗記しても覚えられないこととか、相手の話の一か所だけ聴き逃したといった現象も失錯行為として捉えていいでしょう。
しかし、人間は常に注意が行き届いているわけではないので、疲労や注意散漫なためにこうしたことをしてしまうこともあります。だからそのすべてに隠された意味があるなどという前提に立たない方が望ましいと思います。疲労とかストレス反応などの身体的な面も無視しないように注意しなければならないことだと思います。
また、こういうことは、できることなら自分自身の失錯行為に対して試みてみるべきでありまして、他人の失錯行為(私が上に示したような)をやたらと解釈してしまわないようにすることが、相手との人間関係においても、大切なことであると思います。
上記の例は、私自身の例も含めて、失錯行為とある否定的な感情とが結びついているということが示されています。他者の例においては、私の解釈であるので、実際にはどうなのかということは断言できません。それでも、その否定的な感情が存在しているのではないかという予測はできそうです。
その否定的な感情とは、ここに挙げた例においては何らかの「怒り」でした。怒りの感情を喚起されているのに、それを表現することが禁止されている場面で生じているのです。怒りを感じながら、怒りを抑えなければならないということは、当人たちに非常な緊張感をもたらすものです。この緊張感が失錯行為につながっているのです。
しかし、その人たちに向かって「あなたは本当は怒っているのでしょう」と言ってみたところで、恐らく否定されるのがオチではないかと思います。
ですから、「つまんない?」と娘の言葉を聞き違えて答えてしまった父親に対して、「あなたは心の中ではつまらないと思ってるのね」などと言ってしまわないように気をつけなければなりません。むしろ、「今日は楽しめそうにないのかな」と訊いてみる方がましでありますし、父親が楽しめるように何ができるかを考える方が、人間関係において、よっぽど建設的であります。私はそう考えております。
そして、できるなら、失錯行為の理論(この理論自体は明快で利用しやすいのですが)は、自分自身の失錯行為に関して、その時の自分の感情に気づくために用いられる方がよほど適切であると私は考えております。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)