<テーマ53> 臨床家への批判(1)~「相性が合わない」
(53―1)クライアントたちの掲示板
掲示板にはさまざまなタイプのものがあり、特定のテーマが掲げられている掲示板もあります。
中でも、私がある意味で感心したのは、精神科や心療内科、カウンセラーといった「心の専門家」と見做される人たちに特化した掲示板があるということです。
正確に言うと、それは「心の専門家」に対して書き込むための掲示板で、専門家にかかるクライアントたちの掲示板ということです。
それを読んでいて、私なりにいろいろ思うところがありまして、その中から私が気になった言葉や、繰り返しお目にかかった表現を取り上げて、考察してみることにします。
(53―2)「相性が合わない」はない
中でも、臨床家と「相性が合わない」という表現はいくつも目にしました。
「相性が合わない」ということで、臨床家を批判している例もあれば、そういう形で諦めようとしているという印象を受ける書き込みもありました。
しかしながら、「相性が合わない」というのは本当でしょうか? それは何か他の「問題」を言い換えているだけではないでしょうか。本項ではそういうことを考えてみます・
私なりの結論を最初に述べますが、臨床家とクライアントとの間に、「相性の問題」が介在してくる余地はほとんどないということです。そこにあるのは、大部分が「適応」の問題であるか、「感情転移」の問題であるのです。
(53―3)どこにこの「問題」の本質があるか
そこで、「書き手」の理屈をまず見てみましょう。
「書き手」は、一言で言うと、「相性が合わなかったから、その臨床家とは上手くいかなかったのだ」という理論を展開しているわけです。
ところで、これは問題の本質を捉えているでしょうか。私にはいささか疑問なのです。もっと「書き手」の内面の問題がそこには関わっているのではないでしょうか。
私はこのように考えています。「相性の問題」と彼らが捉えているのは、もっと「書き手」の内面にある何かが表れているものだということです。そして、内面にある問題を、「相性」という外側の問題として処理しようとされているような印象を私は受けるのです。
ここで、この問題の追及すべき点がどこにあるのかを考えてみましょう。「書き手」は自分とその臨床家とは「合わなかった」と述べています。一方で、その同じ臨床家とも上手くやっている人たちもたくさんおられることでしょう。
こういう疑問が私に起きるのです。その臨床家とも上手くやっていけているクライアントたちもいる一方で、上手くいかなかった「書き手」のようなクライアントもいるということですから、両者は何が違うのかという疑問です。
「書き手」の視線でこのことを問い直せば、このようになります。「他の人たちはあの先生とうまくやっているのに、どうして他ならぬ自分はうまくいかなかったのか」という問いになるでしょう。私は、そこに「書き手」が注目するべき、問題の本質があると捉えております。
「書き手」が追及すべきなのはその点にあると、私は思うのですが、それを「書き手」が「相性が合わなかったから」ということで片付けてしまっているのです。そのために、「書き手」には自己に関するテーマがそこに現れていながら、それを追及していく可能性を自ら閉ざしてしまっているのです。
しかし、これを追及していくことは、「書き手」にとってとても辛い作業になってしまうのでしょう。それがどのような辛さであるかということは、個々の「書き手」によっても異なるでしょうから、一概に「これ」と限定して言うこともできません。
しかしながら、私が憶測する限りでは、それを追及していくと、自分の幻滅と向き合わされてしまうのだろうと思います。あるいは、それを追及していくと、ますます自分が見捨てられた人間であるかのように体験してしまうのかもしれません。
「書き手」たちにとっては、それを直視することを何としてでも避けたいと思うのでしょう。そして、「相性が合わなかったからだ」という、いわば不可抗力でこうなったという形で処理しなければならなくなるのでしょう。
(53―4)要約
かなり抽象的な話になったと思いますので、上記の事柄の要約も兼ねて、より簡潔に述べましょう。
私の見解は次のものです。
まず、「書き手」はその臨床家との間で何か望ましくないことや、うまくいかないという体験をしているであろうという前提を私は立てました。
そこには「書き手」の内面的な事柄、内的な「問題」や傾向がもっと関わっているはずではないのかという憶測を、私はそれに持ち込みました。
もし、そういう事柄が関与しているのであれば、そこに「書き手」が目を向けるべき何かがあるのではないかと結論していたのです。
しかし、「書き手」そこに目を向ける代わりに、「相性」という、いわば自分の外側に関する概念を持ち込んでしまっているということです。
「相性」という外概念を導入してしまうことで、「書き手」は目を向けるべき事柄に蓋をしてしまっているのではないかと考えられるということです。つまり、「外在化」しているということです。
「書き手」がこのような「外在化」をするということは、そこに、つまり「書き手」をしてそうさせている「書き手」の内面的な事柄こそ、「書き手」苦しめている事柄である可能性が高いということを示すのです。
この「外在化」によって、「書き手」は取り組むべき事柄に対して、取り組む機会を失してしまっているというのが、私の見解なのです。
(53―5)「書き手」が目を背けるもの
ある「書き手」は、私のことを「これまで会った中で最低のカウンセラー」と評してくださいました。その人にとって、私が「最低」であることは、一向に構わないことです。でも、その人の本当の「問題」は、その人がこれまで誰一人としてカウンセラーと上手くやってこれなかったという所にあるのです。
「書き手」は自ら情報を提出しています。「これまで会った」というのがそうです。その人はこれまでに何人ものカウンセラーに会ってきたのです。その中で私を最下位にランクインしてくれているだけなのです。でも、その人がどのカウンセラーとも関係を築くことに失敗しているということは、明瞭な事実なのです。
この「書き手」はそこを等閑に付しているのです。そして「あのカウンセラーが最低だからこうなった」というような論を展開してしまっているのです。
このように批判するのは構わないのですが、批判すればするほど、私はその人がどういう種類の問題を抱えているのかが理解できるのです。そして、何から目を背けようとしているのかということも、見えてくるように思うのです。
しかし、私の側に何もないなどと言うつもりもありません。公平を期するために、私自身のことも書かなければなりません。
ある種の人たちにとっては、とても厳しいカウンセラーのように私のことが見えるのです。あるいは、同じくある種の人たちからは私はかなり嫌悪されるということも自覚しています。一方で、それとは違ったタイプの人たちからは、私は信用され、頼って来られるのです。でも、私はこれを「相性」とは捉えていません。
私を批判した、ある「書き手」は、恐らく、私がとても怖い人として映ったのだろうと思っています。あるいは、厳しい人間のように思われたかもしれません。恐らく、その人にとって、私が十分に機能するカウンセラーでなかったということは、自分でも認識しているのです、
ところが、それは私の側の問題であって、私が取り組むべき所なのです。「書き手」が非難するところではないのです。なぜなら、私のその問題は「書き手」には何の関係もないからです。
しかし、臨床家が何をしても、非難で返す人というものはおられるものです。クライアントに対して直面化を控えれば「役に立たない」などと書き込み、直面化を迫ると「最低だ」と書き込んだりするのです。
だから、臨床家がどんなことをしても、何を伝えたとしても、やはり何らかの書き込みを「書き手」はしてしまうものだろうと私は思います。
「書き手」が目を背けようとする事柄は、うまくいかないということであり、挫折や苦悩であることが多いようだと、私は思うのです。
彼らが書き込んでいる内容を読むと、周囲がピッタリと自分にフィットしないこと、自分の望んでいることと寸分違わないように他者が振舞ってくれないこと、そういうことに対して憤慨していることなどが見えてくるのです。
言い換えると、自分の思い通りではないという事実に耐えられないのです。その事実が彼らをひどく傷つけてしまうのでしょう。そして、思い通りに行かないということは、当人に無力感をもたらすものであり、多くの書き込みは、「書き手」の無力感の表明であり、その無力から目を背けるために攻撃したり「相性」を持ち出したりしていることも多いようであります。私はそのような印象を受けるのです。
(注)本項は長文につき二回に分載します。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)