<テーマ51> 掲示板の書き込みと「書き手」(1)
(51―1)掲示板の世界
インターネットの世界には、前項に掲げたようなネット上での交流や人間関係の側面だけではなく、ただ自由に「書き込める」という掲示板のような世界もあるようです。
私はあまり詳しくはないのですが、そこはただ書き込んで、銘々が発信するだけの世界であるようです。
書き込んでおけば、誰かがそれに反応して、返信してくれることもあり、交流が始まることもあるようですが、それでも基本的には、交流を求めて書き込むのではないようです。書き込んだ側も、それをはっきり期待して書き込むのではないように、私には思われるのです。
以後、そのような掲示板に書き込む人のことを「書き手」というように表現します。この「書き手」に関しての事柄を本項では中心に述べていくことになります。
(51―2)個人が書き込まれる掲示板
一年ほど前でしたが、あるクライアントが某掲示板に私のことが書き込まれているのを見たと、私に教えてくれました。
当時、私はそれをどうやって閲覧したらいいのか知らなかったので、書き込まれているという事実は知っていながら、そのままになっていました。
その後、偶然、それを見る機会に恵まれました。当然、そこにはいいことなど書いてあるはずはありませんでした。
それから、他の掲示板なんかも見て回りました。やはり、何件か私に関する書き込みがあるのを見かけました。恐らく、私が把握している以上にもっと多くこの手の書き込みは存在しているのでしょう。
(51―3)掲示板は「毒を吐く」場である
私に対しての書き込みを見ていくついでに、他の書き込みを、私はいくつも読んでいきました。
私がそこで知ったのは、そこは「書き手」が「毒を吐く」場であるということでした。
その手の書き込みを読んでいけば、非難、誹謗、中傷、強迫、蔑み、罵り、呪詛の言葉など、ありとあらゆる攻撃の種類を目にすることができます。非常に醜悪な世界が展開されているような印象を私は受けたのです。
そこにはさまざまな人が書き込んでいるとは思います。私の個人的見解では、社会化の達成が不十分な「書き手」ほど、辛辣で生々しく、悪意や憎悪に満ちた書き込みをしているのだろうということです。
中には、こういう形での攻撃に長けている「書き手」もいるでしょう。相手の急所を適格に貫くことが上手な「書き手」もあるでしょう。これも私の個人的な見解ですが、そういう人がこの社会で生きていくのは難しいでしょう。そうしたことも後々述べていくことになるかと思います。
一方、書き込まれた側というのも様々でした。私に対しての書き込みのような、個人に対してのものから、有名企業に至るまでさまざまでした。
個人を対象にした書き込みでも、有名人に対しての書き込みもあれば、無名の人たち、例えばコンビニの一店員さんや、役所の窓口の一受付に至るまで、やはりさまざまでした。
有名人や大手の企業などに関しては、熱心なファンを抱えているほど、そういう書き込みも多くなるという印象を私は受けました。
そうして見ていく中で、私が辿り着いた一つの結論は、次の事です。誰が何をやっても、その人がどんな人であっても、その手の書き込みをされる可能性があるということです。すべての人はこういう書き込みの被害に遭う可能性があるということでした。
(51―4)相手を攻撃するための凶器
このような書き込みを見ていくと、私は実感するのです。こうなると、インターネットは凶器であると。
インターネットはここでは個人や企業を攻撃するための凶器と化するのです。そして、この凶器は、基本的に、弱者の凶器であります。私はそう捉えております。
「書き手」がそういう形で誰かを攻撃せざるを得ない時、「書き手」の方が先に敗北感を相手との関係で体験しているのだろうと思います。
私は自分の経験からもそれは確かであると捉えています。誰かを誹謗、中傷したくなった時、あるいは現実にそれをしてしまったという時、それに先行して、相手との関係において、自分が劣位にあるということをあからさまに見せつけられ、あたかも敗北して無力な状態に陥っている自分を体験しているのです。
もし、対等な立場で相手と交渉できるなら、人はそういうことをしないものです。相手と対等でなく、むしろ劣位にあり、敗北し、無力感に襲われているからこそ、「書き手」はそのような書き込みという手段を取るものであると思うのです。正当な手段では相手と交渉できないことの現れであると私は見ています。
(51―5)「書き手」は相手を意識しているだろうか
また別の疑問が私に湧き起こります。それは、「書き手」は書き込まれる相手のことを意識して書き込んでいるのだろうかという疑問です。
「書き手」に関しては、不明な点が多いので、これを考えるための確かな手掛かりが得られないのです。おそらく、当人たちは「ただ書きたいから書いた」とでも述べるでしょう。でも、相手に対しての何かがあるから、わざわざ個人名まで挙げて、書き込まざるを得ないのでしょう。
従って、私の個人的な見解では、多くの「書き手」が相手を意識して、故意にそういうことを書き込んでいるということです。
先述したように、私はいろいろな掲示板を見ていく中で、偶然、私に関する書き込みを発見してしまうのです。そこに思いがけず自分の名前を発見するのです。これはあたかも、うっかり地雷を踏んでしまったような感じを私は体験するのです。
「書き手」がそういう効果を狙って書き込んでいるのだとすれば、これはけっこう悪質な手段と言えます。
(51―6)それは誰の「毒」か
ここで一つの注目点を挙げたいのです。
先ほど、「書き手」が「毒を吐く」というように私は表現しました。では、この「毒」は誰に所属するものだろうかということです。そこに注意を促したいのです。
この「毒」は私が有しているものでしょうか。書き込まれた側が有している「毒」なのでしょうか。恐らく、私の「毒」ではないでしょう。
私という人間は、この関係においては、一つのきっかけであり、「毒」を吐かれる対象となっているに過ぎないわけです。書き込まれる側の存在は常にそのような立場になると私は捉えているのです。
その「毒」そのものは、やはり「書き手」が抱えているものであると、見做すことができるのです。
こういうことを説明する時に、私は「爆弾と火付け役」の喩えを使うことがあります。誰かが導火線に火を点けるのです。それでその人の抱える爆弾が爆発するのです。それでその人は火付け役を恨んだりするのです。その気持ちは分からないでもないのです。でも、それでも爆弾を抱えているのはその人自身であるという事実は変わらないのです。
従って、「あいつが火をつけたのだから、あいつが悪いのだ」と非難してしまうことよりも、そういう爆弾を捨ててしまうことの方が先決なのです。でも、多くの「爆弾を自らの内に抱える人」はそういう発想をされないものなのです。機会があれば、なぜそうなるのかということも述べたいと思います。
「書き手」が「毒」を吐く時、その毒は「書き手」が有している「毒」なのです。書き込まれる人は、そのきっかけや対象となっているに過ぎないのです。私はそのように理解しています。
(51―7)「毒」は周囲を感染・汚染する
上に述べたように、私の理解しているところでは、その「毒」は「書き手」が保持しているものです。
そして、こういう「毒」は他人に感染し、他の人を汚染するという厄介な傾向があるようです。
ある掲示板で私は次のようなやりとりを見ました。「書き手」Aがある事物について「毒」を吐きます。それに対して、「書き手」Bが返信し、Aを宥めようとします。
すると、AはBに逆上して、Bに対して毒を吐くのです。それに対して、Bは怒り、その怒りに任せて、Aに対して自分の毒を吐き始めるのです。
こうして掲示板上にAとBの毒吐き合戦が始まるのです。これを見かねたのか、「書き手」Cが仲裁に入ります。すると今度はAとBが揃ってCに対して毒を吐き始めるのです。
巻き込まれたCは、Aに対しても、Bに対しても「毒」を吐き始めるのです。仲裁に入ったはずのCが、こうしてAとBに応戦し始めるのです。こうしてネット上で毒の吐き合いが展開されるのです。
この光景は、見ていると、お互いに汚染しあっているという印象を私は受けるのです。いや、もっと正確に述べるなら、自分の毒を吐くということであれば、それがAに対してであろうと、Bであろうと、Cであろうと、相手がその他のだれであろうと、構わないということになるのではないかと思うのです。毒を吐く相手さえいれば、その相手は誰でも構わないという感じを私は受けるのです。
(51―8)人間は内に「毒蛇」を飼い慣らしている
「書き手」が毒を吐く時、その「毒」は「書き手」が保持しているものだ、「書き手」に所属している「毒」だということを、私は先ほど述べました。
この点に関して、誤解のないように一言添えておかなければなりません。それは次のことです。
こういう「毒」そのものは、私たちの一人一人が内に秘めているものである、ということです。誰もが抱えている類のものであると、私は理解しているのです。いわば、私たちは自己の中に、いつでも毒を吐いて攻撃する準備を整えている「毒蛇」を抱えているのかもしれません。
従って、そういう書き込みをせざるを得ない人と、そういう書き込みを必要としない人との差異は、「毒」の種類や量にあるのではないと、私は捉えています。
両者の違いは、どれだけ自己の内に抱える「毒蛇」を飼い慣らしているかの違いであると言ってよいと思います。
「書き手」がネットで書き込む時、「書き手」は「毒蛇」に支配されているようなものなのです。それは、この「毒蛇」を適切に飼い慣らすことに失敗していることの証拠なのです。
そして、この「毒蛇」に身を委ねてしまうということもまた、「書き手」にとっては敗北感を強めてしまっているのではないかと、私は推測するのです。
(9)自己放棄
専門家によっては、そのような「毒を吐く」場が有益であると考える人もあるでしょう。そういう場がないと人は生きていけないと考える人たちです。でも、私はそのようには考えません。
「毒」を吐く場を用意することよりも、人は自分の「毒」を吐くことなく、抱えることができる必要があると、私は考えるのです。
「毒蛇」を飼い慣らすことと、私は表現しました。それがどういうことであるかを述べます。それは、もし「毒を吐きたく」なっても、それを安全な形で、誰にも危害を加えない形で成し遂げることができるということです。「毒蛇」を飼い慣らすとはそういうことなのです。
こういう言い方もできるでしょう。「書き手」が「毒蛇」に身を任せて。思うように「毒を吐く」とするなら、その時、その「書き手」という人間は存在しないのだということです。つまり、その人の内にある「毒蛇」に振り回されるということであり、その「毒蛇」はその人の一部分でしかないものですが、その一部分に支配を許し、その他の大部分を自ら放棄してしまっているということです。私にはそういうふうに感じられるのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)