<テーマ39> 「前向き」ということ

 

 本項を読まれる方は、私が非常に細かいところに拘り過ぎているとお感じになられるかもしれません。「こいつはバカだな」と思われるかもしれません。そう思われるのが怖くて、私は長い間疑問に感じていたことを述べずにいました。今回、思い切って、私はそれを述べてみることにします。

 

 クライアントはよく「もっと前向きになりたい」とか「前向きに生きたい」などと表現されるのでありますが、私はその「前向き」ということがどういうことなのかさっぱりわからないのであります。

 「前」と言っているのだから、それは方向を指しているのだろうと思います。しかし、「前」と言っても、それはどれくらい前方のことなのでしょうか。「前」とは、私の一歩先から地平線の彼方まで含んでいるはずであります。一体、どれくらいの「前」を向いていればいいのでしょうか。

 反論される方もおられるでしょう。私が「前向き」ということを物理的な空間や距離として捉えてしまっているとお考えになられるかもしれません。それはあくまでも気持ちの方向のことだとおっしゃられる方もあるかと思います。

 では、「気持ちが前を向いている」ということだという前提に立つとしましょう。それで私たちは何か理解を深めたでしょうか。むしろ、それがどういうことなのか一層漠然としてしまったように私には感じられるのであります。

そこで、「気持ちが前を向いている」とは、例えば目標に向かう気持ちであったり、そのための積極性のことだというように理解してみましょう。しかし、そのような生き方をしている人がこの世に本当に存在しているのでしょうか。

 

 最近はしなくなりましたが、一時期、私は山登りをよくしていました。山に登ることの目標の一つは、山頂に立つということであります。私は頂上に向かって歩いています。頂上を目指す気持ちは、きっと「前向き」なのでしょう。

 しかし、頂上に向かって歩を進めていると同時に、私は「頂上はまだか、まだか」とも思っているのであります。あたかも頂上の方からやって来てくれることを期待しているかのようにです。この気持ちはきっと「後ろ向き」なのでしょう。

 登山道には道標が立っていたりします。そこに「八合目」などと書かれていたりすると、私は「やっとここまで来たか」と思うでしょう。恐らく、これも「後ろ向き」なのだと思います。なぜなら、その時、私は残りの二合ではなく、これまでの八合の方に気持ちが向いているからであります。

 そして、残りの二合を登りきる。私は「ああ、しんど」などと呟くでしょう。この時、やはり私は「後ろ向き」なのだと思います。なぜなら、達成感よりも、朝、家を出てから山頂へ至るまでのプロセスが「ああ、しんど」の中に込められているのでありまして、いわば過去をふり返っていることになるからであります。

 何が言いたいのかと言いますと、山登りにおいて、私は山頂(目標)に向かうと同時に、山頂の方からやって来てくれるのを期待してもいるということであり、この先の道のりに目を向けていると同時に、これまでの道のりにも目を向けているということであります。目標に向かって前進すると同時に、これまでの歩みをも振り返っているのであります。厳密に言えば、それは同時に起きていることではないとは思います。前を向いている時と後ろを向く時とが交互にあるわけであります。

私は決して「前向き」だけで生きているのではないということが分かるのであります。前を向いているだけでなく、後ろをも向いているのであり、私はそれに違和感すら覚えないのであります。むしろそうしていることが自然なことだと捉えております。

 先に「八合目」の例を挙げましたが、もし、前だけを向いていたら、「八合目」ということに何の意味も感じられないでしょう。これまでの「八合分の歩み」がふり返ることができるからこそ、このサインは私にとって意味があったわけであります。それがあったからこそ、私は残りの「二合」に耐えられるのであります。従って、もし「前」だけ向いて生きているとしたら、私たちは非常に苦しい生き方を送ることになるのではないかと私は思うのであります。「前」だけを見ようとすると、あるのは目の前の道ばかりで、これまでの道のりや現在自分が立っている位置などは、まったく意味をなさなくなってしまうからであります。

 

 私たちは「二元論」の考え方に馴染み過ぎているのかもしれません。ここで言う二元論とは、「前と後ろ」「心と体」「健康と病気」「プラスとマイナス」といったように、物事を正反対の二つに分けて考えてみることであります。概念としてはそれらは分割することはできるかと思います。しかし、私たちが実際に経験するのは、片一方だけということはないと思います。両方を経験しているものではないでしょうか。そして、突き詰めて考えていくと、正反対の二つが、実は非常に近いものであり、しばしば表裏一体だということに気づくのではないでしょうか。

 私は自動車を運転しませんので、実際はどうなのか分かりません。しかし、自動車を運転している人を見ると、運転手はサイドミラーなどを通して、けっこう後ろを見ているのであります。自動車は前を向いて走っているのだから、前だけ見ていればいいではないかと私は思うのでありますが、どうもそうではないようです。前に向かって走るためには、後ろもしっかり見て把握しなければならないのかもしれません。

 さらに、私はそこで不可思議な現象を体験するのであります。私が乗っている自動車を、一台の自動車が追い抜いて行ったとします。仮に北に向いて走っているとしましょう。二台とも北向きに走っているのであります。私の乗る車は、追い抜いて行った車との間に距離が生じて、北へ向いて走っていると同時に、追い抜いた車からは南の方向へ押しやられているような錯覚を私は覚えます。北へ向いて走っていると同時に、南の方向に流されているように感じるのであります。追い抜いて行った車から見れば、私の乗っている車は後方に南に押し流されていくように見えていることでしょう。お互い同じ方向を向いて走っているにも関わらずにであります。

 つまり、私は前に向いて走っていると同時に、後ろの方向に向かってもいるということなのであります。論理的にはこれは矛盾であり、背理であります。しかし、私の感覚においては、辻褄が合っているのであります。

 

 私たちは決して「前」だけを向いて生きていけるとは思えないのであります。「後ろ」も向いているのであります。「後ろ」が見れることで、私たちは前に進めるのかもしれません。もし、「前」だけしか見れないとすれば、私たちの生活は窮屈で苦痛に満ちたものになってしまうのかもしれません。

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

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