<テーマ34>「うつ病」とアイデンティティ(1)
前回までに、「うつ病」において損なわれる部分として、気分、感情、行動と述べてきました。本項ではアイデンティティという側面について述べようと思います。
アイデンティティが損なわれてしまうという一面は、「うつ病」とその他の「うつ状態」「うつ症状」とを大きく区別するのではないかと私は思います。
つまり、「うつ状態」と「うつ症状」においては、アイデンティティがそれほど損なわれたり失われたりしていない場合もあるのですが、「うつ病」においては、そうではなく、アイデンティティということがとても大きな位置を占めていると私は捉えております。
話を進める前に、アイデンティティという概念をどのように理解するかという点を述べておかなければなりません。そこで、若干の考察をしていきます。
アイデンティティということの最も単純な定義は「私は○○である」という文章で表されるものであります。
この定義の「○○」に入るものはすべてその人のアイデンティティである、もしくはアイデンティティの一部を形成しているという考え方であります。
私の場合だと、私は日本人である、男性である、カウンセラーである、次男坊であるといった事柄がすべて私のアイデンティティであるということになります。
アイデンティティに関して、私の好きな定義はR・D・レインによるものです。レインは「アイデンティティとはその人の歴史である」と述べております。
この二つの定義において、前者の定義はその人の役割やポジションなどと関連しており、後者は時間概念と関係していると捉えることが可能であります。
本項では、後者の定義、その人の歴史としてのアイデンティティが失われるという点を述べようと思います。
その人の歴史が損なわれるとは、時間性におけるその人の生の様式が変わってきているという体験であります。
それは過去を失うだけでなく、現在や将来をも失う体験なのです。その人の生の様式がそのような観念を持ち込ませないのであると私は考えています。
そうしてその人の時間体験は、「うつ病」ではない人の時間体験とは大きく異なったものとなります。
リルケは『マルテの手記』において、次のような一文をしたためています。
「僕の一日は変化がなく、針のない時計の文字板のようである」(『マルテの手記』 望月市恵訳 岩波文庫p66より)
詩人だけあって、リルケの表現は素晴らしいと思うのですが、ここでは「うつ病」の人の時間体験を的確に語っているようにも私には感じられるのです。
一体、「針のない時計の文字板」のような一日とは、どういう体験なのでしょうか。
文字板があるからには、そこには時間の概念はあるのでしょう。
でも、その時間は過ぎ去っていくものでもなく、これから来るものでもない、いわば流動することのない時間なのではないでしょうか。
何しろ、そこには針がないということですから、1時とか2時とかいうような構造化された時間は存在しないのではないでしょうか。
また、文字板だけがあるということは、そこにはただ数字だけがあるということであります。その数字は不動であり無意味と化しているという感じを私は受けるのです。
「うつ病」と診断された人の時間体験とは、こういう感じなのではないかと私は理解しております。
ある時、「うつ病」と診断された三十代の女性が私のカウンセリングを受けに来られました。
私はその人のことをもっと知りたいと思いましたので、ご自身のことについてもっと話してもらうように促しました。
すると、彼女は三十数年の人生をものの三分程度で語り尽くされたのでした。
これは決してこの女性が過去の記憶を失っているという意味ではありません。
実際、彼女は質問されれば答えることができるのです。「小学校の時の先生はどんな人でしたか」と尋ねると、彼女はこれこれこういう人でしたと答えることができるのです。
記憶が失われているわけではなく、問われれば、彼女は記憶を辿って答えることが可能なのです。
ただ、個々の記憶はあるにしても、それに意味を持たせ、それぞれの記憶を連続的につなぐ時間の流れが失われているのです。
従って、一つ一つの記憶は失われてはいないのですが、それらは断片的になっており、
相互の意味関連が失われているという感じなのです。
繰り返しますが、決して過去が失くなっているわけではないのです。記憶として、過去のエピソードを彼女は想起することができるのです。ただ、そうした記憶は、現在とは切り離されており、連続性や流動性や意味を失った形で存在しているという感じなのです。
この女性の場合、過去の出来事はもはや現在の自分とは無関係の出来事のように体験されていたのかもしれません。過去は、記憶として保持されているだけで、現在とのつながりは失われ、過去の個々の体験は個別化されているという印象を受けるのです。
「うつ」を体験している人にとって、時間は流れていくものではなく、出来事や経験の意味を形成していかないように私には思われるのです。
確かに客観的な時間というものは存在しています。「うつ病」であっても、例えば、今が何時であるかとか確認することもできるのです。決して時間観念や見当識が失われているというわけではないのです。
その時間体験の様式が大きく損なわれているように私は考えています。
あまり時間論に立ち入らないようにしましょう。時間は哲学でもとても難しい問題なのです。ただ、次の点を押さえておくに留めます。
私たちが何かを体験する場合、何かを創造したり、獲得したり、喪失したり、出会ったり別れたりなど、こうした体験はすべて時間の中で展開されていくものです。
私たちが体験することはすべてある一点、ある瞬間において体験されるというような類のものではないのです。
体験は時間的なプロセスの中で展開して、時間の流動において体験されていくものです。その体験の意味を知ったり、振り返ったりすることができるのも、私たちが時間性に生きているからであります。
もし、時間に流動性が失われてしまうと、私たちは何も創造できず、失うこと獲得することもできず、出会うことも別れることもないという存在になってしまうのではないかと私は考えます。この一瞬の状態が永続してしまうからであります。
従って、時間ということが、生物の生を生たらしめていると述べることもできるのではないかと思います。生命あるものはすべて流動的な時間の中においてしか存在できないのです。
もし、流動する時間性の中に存在しないとするなら、私たちは自らを物質化しなくてはならなくなるでしょう。物質も劣化したりと時間性との関わりを有してはいるのですが、その時間の意義がかなり低いと私は捉えています。
肖像画に描かれた人物は、もはや時間の流動性からは完全に孤立した存在であります。描かれた人物は、もはや変容も成長もありませんし、獲得することも喪失することも、何一つ体験することのない存在です。肖像画の中の人物は、もはや流れゆく時間の中に身を置いていないのです。それはある一点の時間に永続的に拘束されているようなものではないでしょうか。
従って、時間性の中に生きなくなるということ、言い換えれば流動し生成していく時間を失うということは、精神的な死を意味しているということなのです。それは生を失うということを同義なのです。その人には、いかなる体験の可能性も、生成や変容の可能性も閉ざされてしまうからであります。それは「死」の状態と等しいのではないでしょうか。
「うつ病」と診断された人は、人によって程度は異なるとは言え、このような時間性において損なわれていることも多いのです。
それは精神的な死に瀕していると表現できる体験なのではないかと、私はよくそう感じるわけであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)