<テーマ31>間隔の利用
(31-1)クライアントの生活に入り込みすぎないこと
(31-2)「気づき」を得る場所はどこか
(31-3)希望としての間隔
(31-4)構造化としての間隔
(31-5)間隔期間中の参加
(31-1)クライアントの生活に入り込みすぎないこと
間隔というテーマで取り上げていることは、カウンセリングにおいては、面接と面接の間を開けることも大切であり、意味があるということなのです。それを前項までに述べてきた次第ですが、本項では、もう少しだけ補足しておこうと思います。
いろいろな考え方がありますが、私の考えはこうです。まず、カウンセリングはクライアントの生活から区別されている必要があるということです。また、クライアントの生活に入り込み過ぎないということも大切であると考えています。
従って、私がカウンセリングを通して提供しようとする援助は、生活空間を提供するような援助(例えば入院とかDV被害者のためのシェルターなど)とは異なるのです。その点はよくご理解していただきたく思うのです。
また、クライアントの生活空間に侵入しないという限りにおいて、必然的に、私のカウンセリングではクライアントの方から私の面接室に足を運んでもらうことになります。
出張カウンセリングをされている方々もおられるのですが、私はそれには反対なのです。それに、私はそれをしないと決めております。私は、カウンセリングはクライアントの生活空間で行わない方がいいと、そう考えています。これに関しては、後に「場所」に関する項目のところで再度取り上げようと思います。
また、クライアントがカウンセリングに彼の生活を持ち込み過ぎてしまうという場合もありますが、私はそれも基本的には賛成しないのです。これは、例えば、家族全員で受けに来るというような場合です。
もし、家族全員で来られた場合、最初だけ私はその全員と会うことにしていますが、いずれ、その中で本当にカウンセリングを必要としている人とだけ会うようにします(注・2022年現在ではこのようなことをしておりません。最初から一人の人とだけ面接を組むことにしています)。この「本当にカウンセリングを必要としている人」というのは、家族の中に必ずおられるのですが、必ずしも「問題行動」を示している人であるとは限りません。
家族療法をされている方々もおられます。一般の人には、どのカウンセラーも家族療法ができるだろうという期待をされている方もおられるかもしれません。私は家族全員と一度にお会いするのは不得手でありまして、尚悪いことに、家族を「治療」しようなどとは私は思わないのです。正直に言えば、家族療法なんて意味があるだろうかと、そんなふうにも考えているのです。
私が、家族全員とお会いする際に不快感を覚えるのは、カウンセリングがその家族の家庭環境の延長になってしまうからなのです。
(31-2)「気づき」を得る場所はどこか
本項のテーマである「間隔」に話を戻しましょう。
本項で特に明記しておきたいことは、クライアントは「間隔」を、さまざまな形で、上手く利用するようになるという点です。
まず、いくつか例示したいと思います。
あるクライアントは、面接の最中は、私の言葉とか、話し合っている事柄に関しては十分に理解できないでいました。しかし、その人はそれを一旦家に持ち帰って、次回の面接までに振り返るということをされていました。すると、その時はよく分からなかったことが、その人の生活領域において、カウンセラーはこういうことを言っていたのかと気づく場面を経験していました。
この例は、簡潔に言えば、面接では十分に理解できなかったことが、その間隔において、理解が進んでいったということであります。
面接で不十分だったところが、次回までの間隔において補われるというような例はいくつも見られます。
クライアントは普段の生活の中で、ふと、それが分かるという体験を報告してくれます。カウンセリングで話し合われたことが、生活の中で出てくるのです。そして、その時に初めて、カウンセリングで話し合ったことがどういうことなのかが本当に理解できたとか、私の言葉が腑に落ちたという体験をされる方もおられました。
こうした「気づき」というのは、カウンセリングの場面で得られるものだと誤解されている方が多いので、そこは注意しておきます。確かにカウンセリングの場面で得られる「気づき」があることも確かです。でも、大部分において、そういう「気づき」はカウンセリングから離れた場面で体験されるのです。クライアントは彼の生活の中でより多くの気づきを得るのです。カウンセリングはその前段階の作業となるわけです。
クライアントが普段の生活場面において、自分自身への気づきを体験していくためには、カウンセリングで行った作業が不可欠であるということです。
カウンセリングを受ける以前からクライアントは彼の生活空間に身を置いていました。カウンセリングを受けるようになってからも、それは変わらないのです。もし、同じ生活環境において、今までと同じ態度で生活し、自分自身に対して開かれていないとすれば、彼はこれまでそこから「気づき」を得ていなかったように、今後とも「気づき」を得ることはないでしょう。いささか極端な表現ですが、私はそう思います。
今までそこに身を置いていながら気づいていないことに、気づいていくようになるとすれば、彼は同じ生活空間に居ながら、今までとは何かが彼の中で違っているということを示していると思います。
言い換えるなら、心の状態が以前のままであれば、彼は以前と同じものをそのまま見ることになるでしょう。その場合、彼に気づかれなかったことは、今後とも気づかれることはないでしょう。もし、彼の心が以前とは違ったものであるとすれば、つまり心が以前よりも変わってきているとすれば、彼は以前と同じものの中にもっと違ったものを見るようになるでしょう。それが「気づき」という形で体験されるのです。
この「心の変容」という部分にカウンセリングは深くかかわっていますが、それをクライアントが本当に体験するのは、彼の生活空間においてであり、カウンセリングとカウンセリングの間においてなのです。
(31-3)希望としての間隔
さて、一週間後にまた受けに来るということは、一部のクライアントにとって、一つの希望になる場合もあります。
あるクライアントは、それを「待ち遠しい」という言葉で表現しました。
前項(テーマ29)で掲げた事例が、どちらかと言えば「耐える」ものとして間隔を体験していたのに対し、この人たちはこの間隔を期待や希望として体験しているのだと思います。
次の面接までの間に、期待して待っていようと忍耐していようと、クライアントはその間、いい意味でも悪い意味でも、心の中でカウンセラーと関わっているのだと言えます。心の中で、カウンセリングは追体験されていて、その体験が維持されているのです。私はそれはそれでとても意味のあることであると理解しています。
私も若い頃に受けたカウンセリングにおいて、そのような体験をしていたのを覚えています。カウンセラーと会うのは一時間足らずでしたが、次回までに、私はイメージを通して、カウンセラーと関係を続けていたのです。その時、物理的・客観的には私はカウンセラーから離れて一人でしたが、心の中では常にそのカウンセラーと関わり、関係が続いていたのでした。
その体験は、当時の私にとっては、非常に心強いものであったのを今でも覚えています。そうして、私は一人になることに耐えてきたのだと思います。
次回のカウンセリングまでの間に、こうした体験をするということもカウンセリングの一部だと私は考えていますし、クライアントによってはそのような体験が絶対に必要で、且つ、重要な意味があるという場合もあります。
(31-4)構造化としての間隔
しばしば「ひきこもり」とか「うつ病」と診断された人たちは、予定の中に生きていない場合があります。時間が漫然と眼前に広がり続けているというような状態であり、それは砂漠を延々と目的もなく歩き続けるようなものではないかという印象を私は受けるのです。
この人たちにとって、カウンセリングが唯一の予定になることだってあります。
実際、カウンセリングの予約というところから、彼らの生活が構造化されることもあるのです。将来に何の予定も計画もないという状態から、「水曜日はカウンセリングの日」といった予定が生まれるのです。それを皮切りにいろいろな習慣が形成されていく例も私は見たことがあります。。
実際、「水曜日はカウンセリングの日なので、散歩は火曜日にすることに決めた」と述べられたクライアントもおられました。この人は、それまで無秩序な生活をしていました。カウンセリングも、最初は、彼の好きな時や気分の向いた時にしか来られませんでした。でも、一たび、カウンセリングが彼の予定に組み込まれるようになると、生活の他の領域においても構造化され、秩序だってきたのです。
この人も、カウンセリングの間隔をうまく利用した例であると私は理解しています。仮に、この人が毎日カウンセリングに来ていたとすれば、あまりそのような構造化はなされなかったのではないかと思います。カウンセリングは彼の日々のどこかの時間に位置付けられます。それは一つの習慣となるかもしれませんが、この習慣は彼の日常に埋没してしまっていたかもしれません。
カウンセリングの間隔があることによって、この日はカウンセリングの日だから、これは別の曜日にしようといった計画が生まれたのだと、私はそのように理解しています。
(31―5)間隔期間中の参加
現実にカウンセラーとクライアントが対面している時間だけがカウンセリングなのではなくて、次の面接までの時間もまたカウンセリングの一部を成していると、私はそのように考えています。
本項で見てきたように、カウンセリングで話し合ったことや体験したことが、カウンセリング場面以外のところで、クライアントの生活空間において、生きてくるのです。
変化とか「気づき」というのは、面接の場面で生じるよりも、むしろ、面接と面接の間において生じることの方がはるかに多いのです。しかし、それらが生じるためには、面接での作業が欠かせないのです。
以上の点を考察してきたのですが、そういう利用をしないという人もおられるように私は思うのです。正直に申し上げれば、いささか困った人たちなのですが、彼らは単にカウンセリングを誤解しているだけかもしれないので、あまり責めるつもりも私にはありません。
この人たちは、例えて言うなら、生活習慣病に罹患して通院しながらも、今までと同じ生活を続けているようなものだと思います。そして、「どうしても治らない」とか「誰も治してくれない」と不満を述べたくなってしまうのだと思います。その場合、その人の生活習慣病が改善しなくても、医師に責を負うこともできないでしょう。その生活習慣病を引き起こした生活習慣に彼が関与しようとしていないからであります。
一部のクライアントはそれと同じようなことをされています。非常に残念だと私は思います。せっかく自己の何かを改善しようとカウンセリングに取り組み始めたのに、その改善の機会や証拠をつかみ損ねてしまっているからです。
繰り返し強調するのですが、カウンセラーと会っている時間だけがカウンセリングではなく、その間の期間もまたカウンセリングを形成しているのです。クライアントには、是非とも、その間隔期間においても、カウンセリングに参加してほしいと、そう願うのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)