<テーマ30> ネクタイにまつわる話

 私の女性友達は、会うと必ず私のネクタイについて何か言うのです。「そのネクタイ似合っているね」とか「ワイシャツの柄と合わしているの?」などと言うのです。「男性のネクタイにそこまで目が届くなんて、この人はなんてよくできた女性なのだ」と私はいつも感心するのであります。しかし、それと同時に、この居心地の悪いような感じは何なのだろうと疑問に思ってもいるのです。
 彼女は、別に私のネクタイに関して悪く言ったりすることはないのです。言ってくれることのほとんどは肯定的なもので、いわば褒め言葉なのであります。前述のように、そのような言葉をかけられて私は嬉しかったり感心したりする一方で、どこか居心地の悪さを体験しているのです。
 最初はネクタイを褒められることに抵抗があるのかなくらいにしか捉えていませんでした。なにしろ安物のネクタイを締めている時もあるからで、そういう時は私はあまり注視されたくないとも思うのです。でも、考えていくと、ネクタイが安物だろうが上等だろうが、そういったこととは全く関係がないということに私は気づいたのです。安物だからあまり見ないでほしいということであれば、それなりに上等なものを締めている時は居心地の悪さを感じないはずであります。ところが値段の高低に関わらず、どのネクタイの時でも、彼女からコメントされると、私は居心地の悪さを体験しているのです。だから、この居心地の悪い感じとネクタイの値段のことは関係がないということです。

 では、何がこの居心地の悪さを生み出しているのだろうか。最終的に私が気づいたことは、それが私の男性性に関係しているからであるということでした。
  ネクタイというのは極めて男性的なアイテムではないでしょうか。私はそう思うのです。例えばスーツ姿の女性を見ても、私は違和感を覚えることはないのですが、男性が締めているようなネクタイを女性がしていれば明らかに違和感を覚えるだろうと私は思います。男性がスカートを穿かないのと同じで、女性はネクタイを締めない(もしくは男性がしているようなネクタイは身につけない)ものだと思います。もっとも、これは私の個人的な感覚でしかないので、一般化するこ とはできないことではありますが。

 さて、初期の精神分析ではネクタイは男性性器の象徴として捉えられていました。私はあまりこの解釈は好まないのですが、頷けないことではありません。棒状のものや直線的なものはすべて男性的なのです。ちなみに、女性は穴とか空洞といったもの、丸や曲線的なものがその象徴として理解されているのであります。
 ここで一つ注意しなければいけないのは、そういう象徴的な解釈が正しいか間違っているかいうことは重要ではないということであります。正解というものは私には分からないのです。ここでは一つの仮説を立てようとしているわけであります。もしネクタイが男性を象徴しているという仮説に立てば、そこからどういうことが理解できるだろうかということ、そこを探求していくということが重要なのであります。

 前述のように、私はネクタイを極めて男性的な要素であると捉えています。日頃からそう感じているのであります。私は仕事から家に 帰っても、寝巻きに着替えるまではずっとネクタイを締めたままで過ごします。夏場でも仕事中はネクタイを締めますし、結び目を緩めてワイシャツの第一ボタ ンをはずすということも私はほとんどしません。そこまでしてネクタイを付けていないといられないのです。このことは、それだけ私が男性要素を必要としているということなのかもしれません。
 彼女が私のネクタイをじっと見て何か述べる時、私が感じている居心地の悪さは、あたかも彼女から私の男性性を問われているかのように感じ取ってしまっているためだと私は気づいたのです。つまり、私が「男」としてどうかということを彼女から評価されているように体験していたのです。もちろん、彼女はそんなつもりで私のネクタイについてコメントしているわけではないのでしょうけど、私がそのような体験をしていたがために、私に居心地の悪さが生じていたようなのであります。
 ネクタイを通して私は自分の男性性を彼女から問われているように体験しているということでありますが、では、なぜそれを心地良いものとして体験せずに、居心地の悪さとして体験してしまうのだろうか、それが次に問わなければならない疑問であります。簡潔に述べれば、それは私がその評価を恐れている(正確に述べればその評価の結果を恐れている)からだということなのです。それは彼女から私が 「男として失格」とみなされることを私が恐れているということを意味しているのです。私の男性性に対する自信のなさが、ネクタイのことから再び見えてきたように思いました。私は父や兄との関係でずいぶん悩んだ経験があり、その関係の中で十分に男性性を育てることができていなかったように思うのです。今ではその ことが苦悩をもたらすこともなくなってきていますし、ある程度は克服できたものと思っていました。思わぬ所からその問題を再意識させられたように思いました。本当に彼女と付き合っているといろんなことに気づかされるものだと思うのであります。

 最後に二つほど余談を。
 自分を理解するのに、特別なことをする必要はないのであります。私のネクタイのエピソードはそれを示すのにちょうどいい例となるかと思いました。日常で経験するちょっとしたことに注意を向け、考察していくといろんなものが見えてくるものであります。そのちょっとしたこととは、できれば何らかの感情体験であると尚のこと良いのであります。自分の中に生じるわずかの感情に気づいて、その感情をもたらしたものが何だったのかを問うていけばいいのです。そのためには、感情のわずかな生起でも見落とさないようにするということが大事なのであります。そこからいろんな仮説を考慮し、その各々の仮説に依って立って考えてみればいいのであります。「これだ」というものが感得できれば、それはあなたにとって一つの「真実」となるものです。客観的な正解というものはそこにはなくて、あなたに「これだ」という確かな確信が得られれば、それがあなたにとっての「真実」「正解」になるものであります。そういうものが得られたとすると、それは不明瞭で混沌としていた世界に輪郭がもたらされたような体験として、あなたも経験されるだろうと思います。
 もう一つはネクタイに関してです が、ここ数年はクールビズなどと称して、夏場はネクタイを締めないという男性をよく見かけるのであります。オフィス街を歩くと、ノーネクタイのサラリーマ ンとたくさん擦れ違うことでしょう。その男性たちを見て、あたかも「去勢された」男性を見る思いがするのは私だけでしょうか。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー


 

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