<テーマ11>クライアントは弱い人か(続)
(11-4)人間らしい「弱さ」
冒頭に述べたように、自分自身のことに目を背け、ごまかし、責任転換したとしても、その人は一生を送ることはできるのです。そういう人の方が多いかもしれません。
私はそのような人にカウンセリングを強制しようとは思わないし、自分自身に目を向けるように強要することもしません。その人の抱える弱さは、極めて人間的な弱さであるからです。その人が人間であるからこそ、人間的な弱さを抱えることは当然なことです。私もまた弱さを抱える人間ですので、偉そうなことも言えません。
それよりも、その人は自分自身に取り組むことなく一生を終えるかもしれません。そのために犠牲になってしまった事柄もあるでしょう。その人が不毛な一生を送ったとしても、私はその人を軽蔑するつもりはありません。そういう生き方しかできなかった人を、ただそれだけの理由で尊重できないとすれば、それは私の抱える「病理」の問題です。どのような一生であれ、その人の人生は尊重されるべきです。
ただ、その人は自分の問題に、自分自身に「取り組むことはできたはずだ」と私は捉えます。そして、そこを残念に思うかもしれません。
たとえ苦痛を伴うとしても、不都合な部分まで見てしまうにしろ、人は自分自身を見つめ、自分自身をより良くしていくことができるものです。目を背けたくなる気持ちも理解できないではありません。既に述べたように、それは人間らしい弱さでもあり、私も含めて、誰もがこういう弱さを抱えているものだと私は信じているからです。
(11-5)事例~自分と向き合えない前科者
弱さということについて、もう一つ事例を掲げることにします。
この人は男性で、クライアントではないのですが、とても理解しやすいケースなのでここで取り上げることにします。
彼は、実は私の酒飲み友達でありまして、飲み屋で知り合ったのでした。今では会うこともなくなりましたが、私は彼が好きで、彼の話をいつも面白く聴かせてもらったのでした。彼には前科があります。ムショ暮らしがどういうものであるかとか、手錠というものが実はずっしりと重たいものであるとかいう知識は、すべて彼から教わったのです。若い頃は某暴力団組織に所属していて、覚せい剤を転売して稼いだそうです。背中一面に彫り物があり、一度見せてもらったこともあります。「ええか、もうそっちの世界に戻ったらアカンぞ」と私が言うと、彼が涙を浮かべたのを、私は今でも覚えております。
その彼が今では堅気の生活をしています。朝から夕方まで、彼は会社で仕事をします。しかし、会社が終わると、彼は酒を飲まずにはいられないのです。彼の飲酒には問題がありまして、毎晩、浴びるように飲むのです。一緒に飲んでいると、彼の方が先にへべれけになるのです。そして、へべれけになって、前後不覚になるまで彼の飲酒は続くのです。会社が終わってから、眠りに就くまでの時間が彼には耐え難いようでした。
仕事を終えてからの、「何もない」時間が彼には苦痛だったようであり、その時間に大量飲酒をしているわけです。彼が「何か」から逃げているのだということは容易に察しがつくのですが、彼はそれを話してはくれませんでした。恐らく、過去の犯罪に関係があるのではないかと私は推測しております。殺めてしまった相手のことを思い出すのかもしれません。
私は一度、彼に「苦しめていることから目を背けない方がいいのではないか」と提案したことがあります。彼の抱える不安や罪悪感に取り組んでみてはという提案だったのです。彼は「そんな辛いことはしたくないねん」と即答しました。彼にとっては、それを見てしまうことよりも、酒を飲んで意識を朦朧とさせる方がより安全だと感じられていたのだと思います。それを見ることは、彼には相当辛いことだったのでしょうし、それを見るだけの強さが彼にはなかったのだろうと私は捉えております。彼は給料のほとんどを酒代に費やしており、死ぬまで酒を浴び続けるかもしれません。人間の弱さとは、まさにこういうものだと私は信じているのです(注5)。
(11-6)クライアントは弱い人か
ここまで、私は人間の抱える弱さを見てきました。それは人間らしい弱さであり、その人が人間であるからこそ、そのような弱さも抱えてしまうのだということを見てきました。ここで本題に戻って、それでは「クライアントは本当に弱い人間なのだろうか」という問いを取り上げることにします。
カウンセリングを受けるクライアントのすべてが、自分自身に向き合えるとは限りませんし、カウンセリングの場においても、否認やごまかし、責任転換してしまうクライアントもおられます。
しかし、クライアントがカウンセリングを受けるという決断をした時点で、その人はもはやそれを自分自身の問題として捉えざるを得なくなっているのだと思います。そして、それが自分の問題であり、自分自身に取り組まなければいけないと自覚されている方が、実際にカウンセリングに訪れるのだと私は捉えております。その人は、この先も否認、ごまかし、責任転換しても構わないのです。しかし、少なくとも、カウンセリングを受ける時点においては、その人はそれを自分自身の問題として抱えようとされているのだと思います。従って、それは「弱さ」を克服し始めていることであると私には思われるのです。
従って、結論はこうです。カウンセリングを受けるクライアントは弱い人ではない、ということです。弱さを抱えていますが、その弱さを一部克服しようとされている人なのだと言うこともできるかと思います。この意味で、カウンセリングのような作業や場面を避ける人の方が、受ける人に比べて、はるかに弱い人たちなのです。
(11―7)注と補足
(注1)ゲーム、携帯電話、パソコン、あるいはテレビや映画などもそうですし、エステであるとかダイエットなどもそうですが、私たちの周りには自分自身と向き合わないことに役立つ道具であふれていると私は捉えています。もし、これをお読みになられている方で商品開発に携わっている方がおられるとしたら、是非とも、利用者が自分自身と向き合わないで過ごせるような商品を開発されるといいでしょう。利用者が常に外側のことにばかり目を向けてしまうような品物はヒットすること間違いなしと私は捉えております。
(注2)人は自分自身にとって苦しいことには目を背けてしまうものです。精神分析はまさにこの観点から出発したものです。そうして目を背けてしまって(抑圧して)いる事柄が当人を苦しめているのであって、その治療法は「それを見る」という形を取るのです。「無意識を意識化する」というのは、そういうことでもあります。
(注3)これは一つの否認であり、彼の抵抗でもありました。恐らく、彼は自分自身が以前よりも悪くなっているのではという危機感を覚えておられたのだと思います。その危機感に対して「今はたまたま具合が悪いだけだ」という説明を自身に信じ込ませようとしているのです。
(注4)「時間が問題を解決してくれる」という考え方をする人は見かけますが、「時間がその問題を形成した」と語る人を私は見たことがありません。風邪ということを一つの問題として捉えましょう。風邪を形成するのはウイルスの感染と抵抗力の衰弱によってであります。風邪が解決するのは抵抗力が復活して、ウイルスを退治してくれるからであります。この説明は「問題形成」と「問題解決」に一貫性が認められます。しかし、上記のような場合においてはこのような一貫性を私は認められないのです。つまり、その問題は「時間が形成した」のだから、「時間が解決してくれる」という一貫性が感じられないのです。「時間が解決してくれる」と語る人は、しばしば、時間以外の事柄がそれの形成に一役かっていることを知っているのです。従って、こういう観点からしても「時間が解決してくれる」ということは正しくないと私は捉えております。
(注5)前科者の彼が決してお酒を楽しんでいないということは明記しておく必要があります。浴びるように飲酒することは、彼自身にとって苦しいことでもあったはずであります。しかし、自分の不安や罪に向き合うことより、まだましだったのだろうと思います。より大きな苦痛を避ける代わりに、より小さい苦痛を甘受するというのは「神経症」的な人によく見られる構図です。苦痛は伴うかもしれませんが、その両方から解放される道があるのだということが、彼には信じられないのでした。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)