<テーマ9> DV~「加害者」の嫉妬

 DV「被害者」が悩まされることの一つに「加害者」の激しい嫉妬感情があります。

 嫉妬感情そのものは暴力とは関係がないのですが、「加害者」の嫉妬感情により、「被害者」は多くの束縛を経験することになり、不快な体験を重ねてしまうこともあるようです。
 「加害者」にあまりに激しい嫉妬感情が見られたのは、私の経験したケースの中ではほんの少数でした。それは嫉妬妄想と言ってもいいくらいの激しさでした。しかし、必ずしも嫉妬感情と評価できない場合もあれば、「加害者」側の嫉妬感情というのが見え隠れするような形で見られる場合もあります。

 「加害者」がもともと嫉妬深かったかどうかはよく分からないのですが、私の経験した範囲では、何かの出来事をきっかけとして嫉妬感情が顕在化することが多いようであります。
 しばしば「被害者」は「あの人がこんなに嫉妬深かったなんて知らなかった」というように語るのであります。多くの例において、「加害者」の嫉妬感情は初めは見られなかったようなのであります。なぜ、初めの頃には見られなかった嫉妬感情が、後になって顕在化してくるのかということが本項の中心問題であり、それは後ほど論じていくつもりでおります。
 「加害者」が激しい嫉妬に襲われているということは、「加害者」の中で何かが破綻したことを意味するものであるように思います。嫉妬感情が生じる以前に、そういうことが起きているということをここでは前提として考えていきます。

 「加害者」に嫉妬感情が生じる時、そこには嫉妬を向ける第三者が登場しています。この第三者について少し述べる必要があります。それは「被害者」と何らかの関わりのある人であります。「加害者」にとってはこの第三者は「ライバル」であり「恋敵」であり、愛する人を奪う「掠奪者」のように映るのであります。その「ライバル」に特別な要素は必要ではありません。「被害者」が日常生活の中で接する人であれば、例えば仕事場の人であろうと、習い事の教室の先生であろうと、行きつけの美容室の店員であろうと、酒屋の御用聞きであろうと、誰でも構わないのであります。その人に何か特別なものがあるから「ライバル」として映っているのではないのであります。ただ、その人物が「被害者」と接触するというだけのことであります。そして、そうした人が「被害者」と接してしまうということが「加害者」には耐えられないことになってしまっているのであります。
 押さえておくべき点は、「ライバル」には個別的な特性などほとんどないということであります。誰でも「ライバル」として認知され得るのであります。それは「被害者」と同性の友人であっても、「加害者」にとっては「ライバル」として映っていることもあるのです。そして、その「ライバル」の存在は「加害者」の中で問題になっているのであり、しばしば、「加害者」の中にしか存在しない「ライバル」もあるのであります。

 ここまでお読みになられて、次のような疑問を抱かれるかもしれません。「もし『ライバル』が存在するなら、『加害者』は愛する人を『ライバル』に奪われないためにもっと優しくなったり、あるいは甘えたりするのではないか、それがなぜ暴力になってしまうのか」と。この疑問はまったく妥当なものであります。恋敵が現れた時、私たちは一層相手に愛されようと努力するものですし、恋敵以上に相手を大切にしようと考えるものであります。ところが「加害者」は「ライバル」の存在によって、「被害者」に暴力を振るうのであります。これは非常に理解しがたい行為のように見えるかもしれません。
 実際に嫉妬に駆られて、「ライバル」の存在を信じている「加害者」がどのような暴力を振るっているのかを見ると、「加害者」の中でその「ライバル」の存在を追放しようという試みとしてそれが理解できるのであります。暴力によって「被害者」を服従させるのは、「被害者」が「ライバル」に染まらないためであるという認識に立ってその行為を眺めてみると、その暴力がより理解できるように私には思われるのです。
 暴力に限らず、嫉妬に襲われた「加害者」がしつこいほど性行為を「被害者」に強要するということもよく起こります。この性行為も、「加害者」にとっては、「ライバル」を追放しようという試みとして理解することが妥当なのだと思います。
 「ライバル」の存在は「加害者」の心の中でだけ存在していることが多く、「被害者」は自分に何ら身に覚えのないことで暴力を振るわれているという体験をしていることもあるようです。しかし、「加害者」の中では「ライバル」の存在は紛れもない事実のようになっており、この「ライバル」を追放しなければ自分自身が危ういと感じられているようなのでありますいくら「ライバル」が存在していないという証拠を突きつけられても、「加害者」は納得しないのであります。その「ライバル」は、実在する人であってもなくても、「加害者」の心の中で「ライバル」として存在しているからなのであります。
 そもそも、その「ライバル」が 「加害者」の心の中にしか存在しないとすれば、それを追放しようとするのは、「加害者」の心の葛藤となるはずなのでありますが、「加害者」は現実の「被害者」に手を下すことでそれを表現しているのであります。つまり、心の中の葛藤を現実の場面で処理しなければいられないのであり、これは行動化であり、「加害者」が葛藤を心の中で処理することができないことを意味しているのであります。

 ここでもう一つ疑問を覚えられる方もおられるかもしれません。その疑問とは、「もし『ライバル』が存在しているなら、『加害者』はなぜその『ライバル』に直接的に対決しないのだろうか」という疑問であります。この問いに答えようとすれば、「『加害者』がなぜ『ライバル』の存在を必要とするか」という問いにも同時に答えなければならなくなるのであります。それは次節において述べるつもりであります。
 ここで取り敢えず押さえておきたいことは、現実に「ライバル」とみなされている人に挑む「加害者」もあるということであります。私が実際にお会いした人たちの中で、ここまでする人はあまりいませんでしたが、まったくそういうことをしないとは断言できない のであります。「加害者」が「ライバル」に現実に挑むかどうかは、その「加害者」がどれだけ自分の内的現実と外的現実を区別できるかという部分にかかってくるように思われます。この区別が困難な「加害者」ほど、現実に「ライバル」の存在を叩き潰してしまわなければいられなくなるように私には思われるのであります。つまり、行動化の範囲がより広く、一層激しいということなのであります。

 最後に、先ほど少し触れましたが、「なぜ『加害者』は『ライバル』の存在を必要とするのかという点について、私なりの見解を申し上げておきたいと思います。
 「加害者」が「ライバル」の存在を必要としているとは、何とも奇妙に聞こえるかもしれません。と言うのは、「加害者」にとっては、そんな「ライバル」など存在しない方がはるかにいいはずなのです。こんな「ライバル」の存在など必要にしていないはずなのであります。しかし、やはり必要があってこのような「ライバル」が存在してくるように私は捉えているのであります。
 そもそも、「ライバル」が出現する以前に、「加害者」の中では何かが起きており、二人の関係においても何かが既に起きていることが多いのであります。例えば、二人の関係が以前とは違ってきて、「加害者」は自分が以前ほどには愛されていないと感じているかもしれませんし、「加害者」が急に要求がましくなったり、穿鑿するようになったり、あるいは「被害者」に子供のようにべったり依存してくるようになったりなど、そういった変化がすでに起きていることが多いように思うのであります。
 そういう変化に続いて「加害者」の中に「ライバル」の存在が浮き出てくるようなのであります。二人の関係において、初めから「ライバル」の存在があったわけではないというのは、そのためなのであります。ある種のプロセスを経て、「ライバル」が半ば必然的に生まれてくるのであります。
 「加害者」は関心や感情を「被害者」へと向けていました。この関心や感情、あるいは行為といったことも含めて、ここではそれを心的エネルギーと呼んでおきます。
 「加害者」のこの心的エネルギーが「被害者」によって受け止められている間は、「ライバル」は存在する必要がないのであります。しかし、この心的エネルギーが回避されたり、受け止められ損なったりしてしまうと、そのエネルギーは宙に浮くような形になってしまいます。それは対象に向けたエネルギーであるはずなのに、その対象がいないということになります。これがどれだけ辛い体験であるかということは、誰かに相当なエネルギーを使って奉仕したのに、まったく無視されたというような経験を想像されれば察しがつくかと思います。エネルギーを注いでいながら、その受け手がいないということはそれだけ苦しいことなのであります。
 「被害者」が受け手になってくれないということは、「加害者」にとってとても苦しいことでありますから、どこかにそれの受け手を担ってくれる存在が必要になるのであります。その担い手が「ライバル」なのであります。つまり、「彼女から無視された」と認めるよりも、「あの男のせいで彼女がこっちを向いてくれない」ということにした方が、この事態を乗り切りやすいのであります。こうして「ライバル」の存在が必要になってくるのだと私は捉えており ます。
 さて、ここで先送りした疑問に戻りましょう。それは「なぜ『加害者』は直接『ライバル』と対決しないのか」という疑問でした。この問いに対する答えは、「ライバル」を作りだすことになったエネルギーというのは、もともとその「ライバル」に向けられたものではないからである、ということになります。
 「加害者」はあくまでも「被害者」にエネルギーを注いでいるのであります。注いだエネルギーを「被害者」に受け取ってほしい、それが「加害者」の本当に望んでいることなのであります。エネルギーは一旦は「ライバル」へと向かうのですが、それによって、このエネルギーは本来の対象、「被害者」へと向けられることが可能になるのであります。言い換えれば、「ライバル」の存在を通して、「加害者」は自分が失うかもしれないと恐れていることに対処しているのであります。同時に「被害者」との関係を、「被害者」にとっては望ましくない形でですが、このような形で取り戻しているのであります。

(本項の要点)
・「加害者」の嫉妬感情は、「被害者」との関係のプロセスの中で生まれてくるものであること。
・しばしば「ライバル」とみなされる第三者の存在が見られるが、「ライバル」となる人の個別性は関係がないことが多いこと。
・「ライバル」の存在は「加害者」心の中で脅威となっており、「加害者」の心の中でのみ「ライバル」とみなされていること。
・「被害者」への暴力、あるいは性行為の強要は、この「ライバル」を追放する試みとして理解できること。
・「ライバル」を必要とするのは、「加害者」の心的エネルギーの受け手がいないからであり、また「ライバル」を通して、そのエネルギーが本来の向かう先に戻ることになること。「ライバル」の存在を通して、「被害者」と関係が続けられること。
 以上の点を主に述べてきました。

(注)2022年現在おいて、私の考え方はかなり変わってきておりますこれを書いた2011年頃はそのように考えていたということであります。


(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー





 

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