3月2日:Yさんを待ちながら
先にも書いたように、クライアントのことで心が掻き乱されるような思いを体験している。今日あたり、それを抑えることにも限界が来ているようだ。気持ちがさっきから落ち着かない。手が震え、全身がカーッと熱くなる感じを体験している。久しぶりに、僕は酒が欲しいと思った。
酒に手を出す前に、僕はYさんに連絡を取ってみた。今日は会う約束をしていなかったし、彼女の方で何か予定を組んでいるようだったら、僕はお終いだと思った。彼女に電話する。一回目は通じなかった。危ない状況だ。ここで断念したら、間違いなく僕は酒屋に、どこかのバーに疾走していったと思う。少し時間を置いて、二回目に電話した時は、うまくつながった。少々待ち時間を経なければならないのだけれど、彼女は今日、僕と会ってくれる。救われたような思いだ。
この待ち時間に、僕はできるだけ気を紛らそうとした。ブログや原稿を書いて過ごした。酒のことが頭をよぎるけれども、なんとか自分を押さえている。タバコの本数は若干増えた。それと甘い物が欲しくなって、コンビニでチョコレートを買って食べた。僕は自分が愛されているということを確認したくなっている。
よくある種の精神科医の批判をクライアントから聴かされる。「あの精神科医は薬を処方するだけ」などというものだ。僕はクライアントの不満も理解できるし、それにその種の精神科医の肩を持ちたくなる時もある。僕もそれができればそうしたいと思う時がある。「はい、あなたは○○病ですね。じゃあ、この薬を飲んでください。ではお大事に。はい、次の方どうぞ」と、これだけを繰り返していいのであれば、本当にそうしたいものだ。クライアントと関わる、それも幾分同一視して、感情移入して関わる。必ずクライアントの抱えているものを僕も感受してしまう。そうしてクライアントは僕に揺さぶりをもたらす。僕はこの揺さぶられる感じは貴重なものとして扱う。なぜなら、それと同じものを目の前のクライアントも体験している可能性があるからだ。僕は自分が体験している揺さぶりに目を向ける。何かが見えてくることもあれば、見えてこないこともある。見えてくるまで、僕はこの感情をそのまま保持する。いつ見えてくるかは分からないし、絶対に見えてくるという保証もない。でも、少しでも見えてきたら、僕はそれをクライアントにそっと投げかけようと思う。そのための機会を見計らいたいと思う。それがクライアントから拒絶されても構わない。でも、こうして見えてきたものは、クライアントを理解する上で、そして、クライアントが自身の問題を克服していく上で「鍵」となることが多いものなのだ。
僕は今日のクライアントでいくつかの「鍵」を見出した。それは現時点での「鍵」であるかもしれないけれど、とにかく見出したものがあったのだ。でも、そのクライアントには「鍵」を差し出すこともなく、またクライアントも受け取ろうとしないまま、面接を終えてしまった。お互いにバカらしいことをしたものだと思う。
恐らく、そのクライアントは僕を敵対視するようになるだろう。元々の敵意は僕に無関係にその人に存在していたのだけれど、そういう点には注目なさらないだろう。神経をすり減らして恨まれるのは、本当にバカらしいことだと思えてくるよ。
もうじきYさんが来る。待ち遠しい。Yさんが来るまで、何とか酒に手を出さずに済みそうだ。僕はもう鎮静剤を必要としたくないんだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)