3月2日(金):敵意と関わる
今日はなかなか不調な一日だ。いや、昨日もそうだったかもしれない。何をするにも余裕がなく、気持ちばかり焦る感じである。あまり面接の方も上手くいかない。もっとも、僕は自分の仕事に対して、一度も満足などしたことはないのだ。うまく行った面接でも、必ずどこか反省点や不備な点が自覚されているのである。でも、アカン時はアカンものだね。
最近は特に感受性が高まっているのか、クライアントから多くの物を貰ってしまう。子供時代を話しているクライアントを見て、その人が子供だった頃の姿が見えるように思える時もあった。でも、僕がしんどいと感じるのは敵意かもしれない。敵意を隠し持っている人と面接していると、いつの間にか、僕の中にも敵意感情が生じている。この敵意感情は、その人と別れると、しばらくして雲散霧消する。敵意を体験していた自分が信じられないくらいである。その時、僕はあの敵意はクライアントに属していたものだったのだということを知る。
敵意や憎悪の問題は人間にとってとても大きいものだ。敵意を抱いているのに、それに気付かないというのはもっとも良くないことだと思う。最近面接したあるクライアントでも、僕はそのことに危機感を覚えた。その人は、過去にどのような体験をしてきたかをさておいても、今現在において、人を信用できないでいるようだ。そこが問題だと僕は感じているのだけれど、その人はそれを否定する。しかし、指摘こそしなかったものの、僕にはその人が人間不信に陥っているという証拠なり根拠なりをいくつも見出している。徐々にそれは気づかれていかなければならないことである。しかし、それだけの時間をその人はお互いに与えようとはしないのである。こういう時、僕はもうお手上げだという感じを体験する。
あまりに多くの敵意感情を抱いている人と、それほど敵意を抱いていない人とでは、世界はまるで違ったふうに体験されていることだろう。敵意に満ちている人に誰が何を言っても、いくら共感的に語りかけても、その人には別世界の言葉として響くのではないだろうか。そもそも敵意を向けている人の言葉など初めから聴く気にもなれないかもしれない。
以前にもこういうことがあった。その人は僕と面接する前に、ある精神科医の面接を受けていたと言う。彼はその医師との面接がとても良かったと体験していたようだ。しかし、医師の無理解な言葉に腹を立て、決別してしまったのだ。それで僕をその代わりにしようとされたのである。この間、半年くらいの開きがある。彼は僕との面接で腹を立て、恐らくネット上で、掲示板に書き込みをされたようである。彼の言い分ももっともである。彼は敵意を内に秘めているのであり、僕はそこに少しでも目を向けておきたいと思って働きかけたのであるから、彼が自分を守りたくなったのは当然理解できることである。そこで、彼は前の臨床家は良くて、寺戸はカスだというような書き込みをしたりする。それはその通りでしょう。しかし、一つ観点を見落としているようである。僕と上手くいかなかったのは、僕の方に原因があるだけでなく、彼の方でこの半年の間に人間不信が強まっていった可能性もあるだろう。つまり、半年前に精神科医の面接を受けた時の彼と、現在僕の面接を受けた時の彼とは、当然彼の状態が違っていることだって考えられることである。僕と面接した時の方が、はるかに強い怒りや敵意、憎悪を体験されていたと思うね。実際、彼の話からはそういう傾向が見えるのである。まあ、彼個人のことには触れないようにしよう。でも、公平に見るなら、両方の可能性を考慮しなければならない。だから僕ではなく、他の臨床家が彼を面接しても、彼は同じような体験をしていたかもしれない。
僕はその人の苦悩をいくらかなりとも感じ取っている。できれば力になりたいとは思っている。しかし、僕を跳ね返そうとする人に対して、僕はどのようにかかわることができるのか、まだまだ模索していかなければならないようだ。僕もすごく苦しい作業をしているのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)