2月14日(火):僕の存在する世界
電車に乗っていると、小さな機器を手に、液晶画面と睨めっこしながら、一生懸命指をシャカシャカ動かしている人をよく見かけるのだけど、あんなもの愉しいのかね?
隣に座った人のシャカシャカをそれとなく見ていたのだけれど、インターネットでも見ているようだ。電車の中で観なければならないものだろうかとも思うね。
インターネットで世界とつながったとしても、それはほとんど意味のない世界である。世界とは場所であり、空間であるという意味合いを含むものだと思う。そうなると、僕が存在している今ここでの立ち位置に僕の世界があるということになる。
僕がカフェにいる。このカフェは僕が今関わることのできる世界であり、僕が現に存在している世界だ。僕が職場にいる。職場はその時の僕にとって世界である。外の世界が存在しているのは分かっている。しかし、外の世界は差し当たっては僕が関わりのもてる世界ではなく、ある種、別世界という感じにも体験される。
僕は世界をこのように捉えている。僕の行くところが僕の世界になり、世界はそうして僕の中で創造されていくものである。客観的な世界というのは確かに存在するし、外の世界があるということも分かる。でも、僕にとって意味がある世界というのは、僕が存在しているところを基盤にして、僕の中で形成され、体験されている世界空間なんだ。それ以外の世界というのは、たとえその存在が理解できているとは言っても、僕には直接的な意味がない。どこか他所のお国の絵空事のように思われる時もある。
こんな風に考えてみよう。日本の裏側に位置するブラジルのことを僕がインターネットで調べ、読んでいるとする。ブラジルのことについて書かれているのを読んでいるという場面だ。僕はいろんな体験をするだろう。
一方、僕はライマンフランク・ボームの「オズの魔法使い」を読んでいる。オズの国について書かれているのを読んでいるという場面だ。きっと、そこでも僕はいろんな体験をするだろう。
片一方は現実で他方はファンタジーであるということを、僕は頭では理解できている。しかし、体験されている事柄にそれほどの違いがあるだろうか。どちらも、僕にとっては、僕が存在しない世界であるという点では違いがないのではないだろうか。
液晶画面上で指をシャカシャカ忙しなく滑らせて、世界を見たり、世界とつながったりする前に、その人は見るべきものがあると僕は思う。この電車の中が、その人の今の現実の世界であり、それは一方で僕とも共有されている世界である。共にこの世界を生きており、この世界の住人どうしのようなものだ。この世界は、僕たちには現実に見える。現実の世界、つまり自分が今存在している存在の基盤を形成しているこの世界に目を向けることなく、どこか遠くにある物を見ているわけだ。その遠くがブラジルだろうとオズの国だろうと、同じことである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)