2月7日:騒音に耐える

2月7日(火)騒音に耐える

 

 昨日は隣の工事の騒音が物凄くて、臨時休業にした。入っていた予定はすべて延期してもらった。面接しても、面接にはならなかっただろう。

 僕の机には電話機がある。呼び出し音は最大に設定してある。僕は机に座っている。それでも電話が鳴ったことに気づかなかったのだ。すぐ近くの電話の音に気付かないほどの大きな音に悩まされ続けたのだ。

 「地震ですか?」 こう尋ねたのは先週の木曜日に来られたクライアントである。僕は「いいえ、違うんですよ。隣の工事です」と答えなければならなかった。それくらい先週は振動が大きかった。

 いわゆる「地震酔い」というものがある。緩やかに長時間地面が揺れていると、船酔いしたような気分の悪さが体験されたりする。ああいうものが、僕は自分の職場にいながら経験されたという日もあった。もう、うんざりである。

 そもそも工事は一月いっぱいで終了するという話だった。おまけに基礎部分は解体しないという話だったように記憶している。ところが蓋を開けてみれば、二月に入っても工事は終わらず、基礎の部分を今解体しているという有様だ。どこでどう話が食い違い、あるいは発展していったのか、僕には何も見えない。だから、これがいつまで続くのかということも、僕にはまったく見当もつかない。

 今日もまたガリガリやっている。今日の方がまだましかもしれない。はつる音が断続的になっているからである。昨日はもっと連続的で、一回一回が長く、それが間髪を入れず立て続けに繰り返されていたのだ。それに比べると、今日の方がまだ静かな間があるので、ましだと思えるのである。

 人も環境も、騒がしいのは苦手である。すべての注意や関心がそちらに強制的に向けられてしまうように僕は体験してしまうのだ。騒々しい人がいると、思わずそちらを見てしまうということがある。それまでやっていたことが、そこで中断される。それがまた煩わしい。

 都会に住む限り、こういう工事には協力しなければならない。僕の職場が入っているこの建物だって、工事の際には近隣に迷惑をかけたことだろう。それを考えると、お互い様である。だから、彼らが解体工事をするというのであれば、僕はそれに協力をする。

 協力をすると言うのは、その工事が遅れないよう、邪魔立てしないということである。工事をするならするで、それに反発して対抗するよりも、協力して速やかに終わらせてもらう方が僕としては遥かに助かるのである。

 しかし、この協力は僕の忍耐が要請される。我慢しなければならないからだ。僕は騒音に悩まされながら、発見したこともある。僕が我慢して邪魔立てしなければ、工事はそれだけ速やかに進行する。僕は今、この信念を抱いている。この信念が生きている間は、恐らく耐えられるのだろうということである。つまり、自分のしている我慢に意味があり、それによって達成されるであろう目的を信じている限り、僕はそれに我慢できるだろうけれど、これらが失われた時、初めて僕に我慢の限界が来てしまうのだろうということである。

 今日もまた、「早く終わらせて」と願いながら、騒音を耐えているのである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

 

 

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