9月27日:アベ国葬

9月27日(火):アベ国葬

 

 今日はアベ元首相の国葬があるそうだ。テレビで中継されているけれど、僕は見ない。見なくともニュースなんかで取り上げられるので、あちこちから情報が入ってくる。

 反対派も多い、僕もその一人だ。当日まで反対デモが方々で行われたらしい。僕も参加したいくらいだった。

 もちろん、葬儀は構わない。議員葬であれば問題はない。弔問することも反対はしないし、献花する人はしていい。

 

 国葬の問題はいくつかある。

 まず、国葬の基準である。アベが国葬に値するようなことをしただろうか。長期政権というだけが根拠になっているような気がする。この長期政権も、他にいいのがないから長続きしたという側面が無いわけではない。それまでの首相がころころ交代してきた背景もあり、アベがまともに見えるという面が無いわけでもないように思う。

 しかし、二度とも任期をまっとうせずに終わっているのだが、そこも評価に含まれているのだろうか。

 それに、アベは何を達成しただろうか。何か一つでも成し遂げたというものがあるだろうか。アベノミクスも成功していない、というか最後の段階まで達成できていない。モリカケサクラ問題も然りである。ずさんなアベノマスクと五輪くらいなものか。どうにも評価できないように僕は思う。評価できる業績が見当たらないように思えてくるのだ。

 それはさておいても、本当なら審議を重ねて、国葬に値すると決まってから、国葬の発表があるはずであるが、今の政権はそういう手続きをすっ飛ばしている。

 

 今回の国葬の問題点の一つがそこにある。閣僚だけで決定されているということだ。議会を重ねて、討論して、合意を得ての決定ではないのである。この辺りは危険である。民意が反映されないというだけでなく、一部の少数の人たちだけで国のことが決定されてしまうわけだ。

 こうした傾向は今に始まったことではない。五輪もそうであったし、コロナ対策でもそうであった。基本的には同じことが繰り返されているように僕には見える。何も変わっていない気がするのである。

 

 三つ目の問題点は、個人の道具的利用という側面だ。今回の国葬は外交の一手段として行われた感が僕にはあるのだけれど、それは個人の利用ということになる。それも道具的な利用である。

 こういうことが平気でできる政権はちょっと怖い気がする。経済のために五輪を利用するというのとは少し事情が異なる。それも不愉快であるが、個人の道具的利用とは、個人の人格を無視することである。それは人権の無視につながるものである。だから、今の政権では僕たちに人権は無いと思っておかなければならない、と僕は考えている。

 

 最後に個人の英雄視である。これも危険な兆候である。本当は英雄でもない人間が英雄に祀り上げられるのである。

 これの何が問題であるかというと、国でも集団でも、衰退する時には英雄が求められるのである。英雄が生まれることもあれば、英雄が作り出されることもある。戦時中の乃木大将などはその一例である。

 個人においてもそれが生じる。個人がダメになっていくほど、英雄を欲するようになる。救世主を求めるようになる。それが外部にないなら自分がその立場に立つ。つまり誇大的な自己を作り出すわけである。

 アベ国葬の背後に、この国の衰退を見る思いがするのである。だから見るに耐えないのであるが、それだけでなく、認めたくないという気持ちも強いのだ。国が衰退していくことに僕は抗議したいわけである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

 

 

 

 

 

 

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