11月12日:思索に生きたい

11月12日(金):思索に生きたい

 

 今日は特にこれといった予定は入っていなかった。午前中はサイトの原稿を書いて過ごし。午後から本を一冊読んで、さらに数本の論文を読んだ。体は動かさなかったものの、頭はフル回転した一日だった。

 

 20時過ぎて、帰り際に電話が鳴る。取ると、いきなり支払いがどうのこうのという話をされる。なんのことかいなと僕は一瞬意味が把握できないでいる。仕事に行けないとかそういうことを相手は訴えている。それで支払いの話になって、ようやくこの人の言っていることが料金のことだと把握できた。僕は料金を伝えると相手はガチャンと電話を切った。

 まあ、別にいいんだけれど、僕とは無縁の人なんだから。しかし、ひと言わせてもらうと、彼は仕事に行けないのではないのだ、仕事の方が彼を拒否しているのだ。

 

 帰宅して、もう一冊本を読もうかとも計画していた。しかし、もう頭が疲れた。帰宅前に近所を散歩する。賑わいは今一つといったところだ。昨年から続く経済のダメージは相当大きい。それ以前の段階に戻るまでにもう数年かかるのではないかと思う。

 バラマキと批判されようと、政府はガンガン給付金を出せばいいのに、とも思う。18歳以下の児童に10万円を支給するという案も一応決定した。愚策であるかどうかは別として、それが決まるまでに何日かかったことか。おまけに5万円の現金を年内に支給して、残りの5万円は来春にてクーポン券で支給するということだ。一括して支給することよりも二倍の作業量が役所の人たちに課せられるわけだ。人的資源の無駄としかいいようがない。

 一括で10万円支給して、次の対象者のことに取り組んだらいいのに、昨年同様スピード感ゼロの政府である。

 政府には危機感が乏しいのであるが、それは危機の把握がきちんとできてないということである。危機の把握を妨げているのは意味不明の楽観論である。この楽観論は五輪開催を巡って顕著に見られたものである。この楽観論はどこから生まれるのか、それは大きな危機を経験していないことと、危機を経験しても何とかなったという経験である。こんな風に考えていくと、政治家がどんな世界に生きていたかが推測できようものである。

 日本は総貧困化の道をまっしぐらに進んでいるようだ。先進国はおろか、途上国並みになりつつある。今でこそ大企業だの富裕層だのと言っていられるけれど、そのうち、そういうこともなくなるかもしれない。大企業でさえ危うい時代に差し掛かっている。富裕層も富裕層と言ってられなくなるかもしれない。

 

 僕はと言うと、貧乏でもいいから、朝から晩まで思索に耽る生活を送りたい。そもそも物欲は限りなく小さくなっているし、旅行やグルメなども興味がない。服装なんかも気にしない。テレビなんかも興味がない。

 いくつかの趣味はあるけれど、たとえば音楽なんかは今はあまり聴かないし、演奏に関してはまったくやっていない。映画は観るけれど、その興味も今は薄れつつある。

 酒は飲むが、全盛期の5分の1しか飲めない。昔は10杯くらいは平気で飲めていたのに、今は2,3杯でもうええわってなる。お酒と料理とはセットとは言え、今は飲むときは飲むだけという感じだ。食べたいと思うものがない。

 本は、長いこと新刊を買っていない。つまり古書しか買わない。一冊100円で叩き売りされているような本で、掘り出し物を見つけるのが楽しい。一冊の知識が100円で買うことができるなら、安いものだ。本の出版が新しいとか古いとかいうことには拘らない。ヤスパースの言うように人間に関する学問は継続的な価値がある、と僕もそう思うのだ。古書でも十分勉強できる。

 生活に必要な分だけ仕事して、あとは人間とは何であるかという思索だけをしたい。スピノザが送ったような生活に今は憧れている。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

 

 

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