1月18日(水):変化は無意識であるべき
昨日、少し予告してしまったために、今日はそのことを書かざるを得ない。それほど大したことではないし、読む人にとっては「なんだ、そんなこと当たり前じゃないか」と思われるようなことである。わざわざ書かなくともよいのであるが、一応、予告した以上、ここに書いておこうと思う。
昨日、予告したのは、人間の変化というものが無意識的であり、尚且つ、無意識でなければいけないということであった。その理由を僕自身のある体験から述べようと思う。
僕は小さい頃、自転車に乗ることができなかった。周りの友達は普通に乗っているのに、僕だけ補助輪を付けていたくらいだった。当時の僕には、二輪車が転倒しないということが不思議でならなかった。
さて、「自転車に乗ることが出来ない私」から、普通に「自転車に乗ることができている私」に変容していく過程にどのようなことがあっただろうか。当然、自転車に乗れるように練習もした。
最初にサドルに跨る。すぐには漕ぎ出さないで、フォームをきちんと確かめる。両手でハンドルを握り、ブレーキに軽く手をかける。ペダルは右足が頂上に来るように位置づける。フォームが完成すると、左足で軽く地面を蹴りだす。自転車が前に進む。素早く右足でペダルを踏み込み、左足を所定の位置に置く。こうしたプロセスの一つ一つを意識的にやっていたのを僕は覚えている。
練習するとそれなりに乗れるようになっていく。でも、初めの頃は、「ハンドルに手をかけて、ペダルをちょうどいい位置に持って来て、フォームが整ったら左足で蹴りだして」といった手順を意識的に踏んでいかなければならなかった。それなりに乗れるようにはなっているのだけれど、こうして意識的に一つ一つのことをやっている段階では、自転車に乗ることができているという感覚は得られなかった。正確に言うと、乗ることができているのだけれど、自分では乗ることができているとは思えなかったのだ。まだ、乗れない自分を体験していたのである。
それでも、練習を続けていると、こういうことを一つ一つ意識することなく、乗ることができているようになっていく。そこで、いつそれらを意識しなくなったのかということを問われると、僕は分からないとしか答えようがない。はっきりと線引きできないのである。気がつくと、最初の頃は意識していたことを意識していなくなっていたとしか言いようがないのである。しかし、そうなって初めて、自転車に乗ることができている自分を体験しているのである。以前とは違う自分を体験しているのである。
「こうすればうまくいく」とか「こういう具合にしなければならない」ということを、意識的にしている段階というのは、実はその人が以前のままの状態にあるということを示すものである。そうしたものが意識的にならなくなった時、ようやくその人は以前とは違ったと言えるのである。
「酒は呑まない」と意識して、呪文を唱えるように言い聞かせている間は、僕はまだ酒呑みだったのだ。いつの間にか、そういうことを唱えなくなり、酒のことも考えなくなって、言い換えれば断酒が無意識に実行できているようになり、その時、初めて、僕は以前の酒呑みではなくなったという自分を体験するのである。
昨日、言いたかったことはそういうことである。読んでくれた人にとっては、当たり前のことすぎてつまらなかったのではないかと、僕はいささか心配である。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)