1月4日(水):女性友達に捧げる(18)
キリスト教というものは、スプリッティングをしてしまう人にとってはとても理解しやすいのではないかと僕は思う。神の側を善とするなら、神から離れた人間の側は必然的に悪にならざるを得ない。人間は悪において平等であるということであれば、それ以上にスプリッティングは生じない。しかし、キリスト教は、同じ人間でも、信者は神に帰依しているから善であり、信者でない者は悪のままであるという分割をしてしまうのである。こうして、私たちは善であり、選ばれた民である、そしてまだ善でない人たちを導いてあげようという発想が生まれるのだ。僕はそのように理解している。もちろん、キリスト教を非難するつもりは僕にはない。カトリックの信者さんを僕は何人か知っているのだけど、派手にスプリッティングする人もあれば、そういう分割をしない人もある。
女性友達は、あるキリスト教の一派の人たちと親交がある。彼女自身は信者というわけではない。その一派は、僕の感覚では、派手にスプリッティングする人たちなのである。彼女が彼らに親しみを覚えるのは、僕にはよく理解できる。
彼女は信者の方々に救われたという体験があるらしい。そして、その宗教の教えを守っていると信じている。しかし、彼女が信じているのは、自分に都合のいい教えであり、しばしば、その教えを盾にしているに過ぎない。彼女自身は宗教的な生き方をまるで送っていないからである。
彼女はよく言っていた。「お金を愛しすぎてはいけない」と。僕には、彼女がそう言うのが信じられなかった。彼女は実際にはものすごくお金を愛しているのだ。もし、彼女の中で矛盾が生じていないのであれば、それは「私はお金は愛していないけれど、お金への執着がある」と言っているようなものである。この教えは、実際にはこの「執着」への戒めのはずである。もしくは、お金に執着している自分を、一方で別の自分が否認しているのかもしれない。これもまた一つの分裂である。
僕自身は、それほど金銭欲が強い方ではないので、この辺り、彼女とは水と油だったかもしれない。僕から見ると、彼女の金銭への関わり方というのは、貪欲なものだった。僕にはそう見えていた。この貪欲さが、口愛期固着を思わせるのである。
一度、彼女と食事に行った時に、それが刺激の強い料理だったこともあって、彼女は後で胃が痛いと訴え始めたことがある。彼女を見ていると、とても辛そうだったので、僕は「コンビニに行って、胃薬を買おう」と提案した。しかし、彼女は「勿体ない」と言って却下したのである。「僕が買うから」と言っても、「勿体ない。薬は家に帰ったらある」と言って、断固として譲らない。あの時、彼女には何が見えていたのだろうと思う。彼女が苦しそうで、僕は見ていられなかった。少しでも痛みが緩和されるならと思って、僕は提案したのだ。僕の感覚では、それは必要な出費である。目の前で好きな人が苦しんでいるのに、多少の出費を削る必要があるのだろうかと僕は思った。彼女は「これくらいの痛みは耐えられる」と考えたのかもしれないけれど、その為に、心配している人の気持ちは無意味なものに貶められる。
翌日、彼女と会って、無事に帰れたと聞いて、僕は安心した。当時は、「そこまで我慢しなくてもいいのに」という思いが強かったけれど、今から見ると、彼女がとても浅ましいように見えてくるのである。僕は彼女の感覚は理解できないし、ついていけない。彼女は余計な出費が抑えられて満足かもしれないけれど、心配した人間の気持ちは価値下げられるのである。彼女にはそこが見えていただろうか。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)