12月22日(木):女性友達に捧げる(15)
20日(火)に僕の師匠に会いに行ったのだが、それは女性友達との間で僕が経験した不鮮明な体験を明確化するためであった。ただ、この面接では、僕は有益な理解を得ることがなかった。師匠は僕と彼女とのことを何も知らないので、どうしても事情を一から話していかなければならなくて、そこで大部分の時間を取ってしまったのだから仕方がないのかもしれない。
僕の話を聴いていて、師匠が涙ぐんでいたような瞬間があった。共感してくれるのは嬉しいのだけど、一緒に泣いて欲しいとは僕は思わない。それを求めているのではないのだ。一組の男女の別れ話である。世間にざらにあることなので、憐れんでもらう必要もない。
師匠もまた「フワフワした感じとはどういうこと」と尋ねてくる。その感じを何とか言語化したいと思い、それを師匠に手伝ってもらいたかったのだが、その目的は果たせずじまいだった。ただ、彼女との関係を改めて口頭で表現できたことは良かったかもしれない。
さて、彼女とは急速に仲良くなっていって、僕の感情や思考を彼女が占めていくことになった。常に彼女が気がかりとなり、彼女のことを考えるようになった。こうして彼女は、いわば僕の中心部分を占めるようになったのだ。彼女がフラフラし始めると、僕は僕の中心があちこちに持って行かれるような感じを体験する。僕が自分を喪失しそうになったというのは、そういう感じなのだ。何とか彼女を一か所に落ち着けないと、僕自身が揺り動かされてしまうのである。恐らく、以前の男たちも同じようなことを体験したのではないだろうか。彼らは力で、暴力でもって、彼女を一点に据え付けようとしたのだと思う。そうでなければ、自分が保てなくなっていたのだろうと思う。
彼女から揺り動かされないためには、彼女を周辺に置かなければならなくなる。これはいわば、彼女を愛するためには、彼女に関心を向けてはいけないのだという背理を生み出すことになる。この背理に従うとすれば、僕は一つの分裂を体験することになる。愛するためには愛さない方がいいということになるからである。愛する自分と愛することを禁じる自分とが対立し、葛藤を起こすのである。
この二律背反状況で関係を続けることも可能かもしれない。しかし、たまに良好な関係を体験すると、この状況が一層耐え難いものとして体験されてしまう。つまり、時折、鍵と鍵穴関係を体験してしまうのである。これを体験した時は、「禁じる方の自分」が罪悪感に駆られる。「こんなに愛してくれているのに、なんで彼女を愛さないようにしようとしていたのだろう」と思うのであり、「こんな自分は悪い人間だ」という意識を強めてしまうのである。そうなると、「愛する方の自分」を強化すようとするのだが、この「愛する方の自分」は再び裏切られることになる。そして「やっぱり愛さない方がいいのだ」と感じ、「禁じる方の自分」を再び蘇らさなければならなくなる。こんなことを繰り返していたように思う。
この二律背反状況を生み出したものが、どちらに属する「問題」が誘引になっているのかはっきりしない。「彼女を愛し、愛してはいけない」という感情は、一方で、「僕は彼女から必要とされていると同時に必要とされていない」という感情をも生み出した。前者は僕の個人的な事柄であるかもしれないが、後者は彼女が関与してくる。今、僕は一つのことが見えるようになっている。僕が苦しいと感じており、また不明瞭なものとして体験していることは、「彼女にとって僕は何だったのか」という疑問である。
そうなのである。僕が求めているのは、この疑問に対する彼女の答えであった。僕は彼女にとって彼氏のようでもあり、教師のようでもあり、父親や兄のようでもあり、敵でもあり、赤の他人でもあった。彼女によって属性付与されるアイデンティティがめまぐるしいのである。彼女と一緒にいると、僕自身がよく分からなくなるのはそこに要因があると思う。自分が何者だか分からなくなるのである。一つのポジションが与えられないのである。もっとも苦しんだのはそこだったかもしれない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)