12月16日(金):女性友達に捧げる(10)
彼女は自分のことを「アホ」だというようによく言う。勉強はできなかったらしい。でも、体育の成績だけはいつも良かったという。僕は、彼女のことを「頭が悪い」というように見做したことはない。確かに、知的な学習、例えば文章を書いたり読んだり、記憶したりといった学習は彼女は苦手かもしれないが、体験的な学習、つまり体で覚えるということに関しては、彼女が抜群の能力を発揮する。彼女に車の運転を教えるということであれば、運転の手順を、自動車の仕組みを一から説明するより、実際に彼女に運転してもらった方がよく覚えられるはずである。
身体で覚える形での学習能力が高いということは、身体で体験したことは再体験しやすいということにつながる。つまり過去体験を身体で覚えているということだ
彼女は絵画のモデルをやってみたいと言い出した。僕はあまり賛成しなかった。それでも「脱がない」という条件だったから不承不承容認した。しかし、仕上がった絵を見ると、案の定、上半身裸になっていた。僕は「それを脱ぐと言うんや」と言って、「二度と僕にその絵を見せないでくれ」と頼んだ。「脱がないでほしい」と僕が頼んだのを、彼女はせいぜい「ヤキモチを焼いている」くらいにしか捉えていなかったのではないだろうかと思う。でも、このことはもっと深刻な問題を孕んでいたのである。
彼女は若い頃、病院の医師からストリップまがいの行為を強要されたことがある。僕は以前にその話を聞かされて、憤慨した経験がある。彼女も、昔の話とは言え、相当嫌な思いをしたはずだろうと思う。だから、絵のモデルなどと称して、人前で裸になることは、彼女にその時の記憶を蘇らせるのではないかと心配したのである。しかも、彼女は身体で学習する能力に長けていると僕は捉えていたから、本人は意識しなくても、似たような体験は再体験を起こしやすいだろうと、僕は読んでいたのである。
結果、どうなったかと言うと、散々なものだった。絵のモデルを経験してから、彼女は見る見るうちに不安定になった。精神的に不安定になるし、手の病気は再発するし、交通切符を切られたり、バイクを盗まれたり、車に傷を付けられたりと、彼女には碌なことが起きなかった。その頃の彼女は僕には病人にしか見えなかった。もちろん、絵のモデルと病院でのストリップ体験との間に僕はつながりを見ているのだけど、それが正しいという確証はない。でも、瞬く間に彼女が崩れていくのを見て、やはり彼女の中で何かが起きたのだとしか思えなかった。
やつれていく彼女を見て、人の忠告を無視するからだと、自業自得だという思いもあれば、一方で、分かっていながら食い止めることのできなかった自分が嫌だった。このことで、僕がどれほど辛い思いをしたか、彼女には分からないだろうと思う。実力行使してでも、阻止すべきだったと後悔の念に襲われるのだ。
彼女と交際すると、この種の苦しみは後を絶たない。無念な気持ちを繰り返し僕は味わう。彼女のことで、いろいろと心配したり、不安に襲われたりする。嫌が上にも、彼女のことで僕は占められてしまう。こうして、僕はますます自分自身を失うような感覚に襲われていく。こんな関係になってしまうことを僕は望んでいなかったのに、事態は僕の望まない方向へまっしぐらに進んでいくようだった。とても辛かった。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)