12月14日(水):女性友達に捧げる(8)
僕は、一方では彼女を愛していたと言い、他方では彼女と別れて楽になったと言っているので、読んでくれている人には、僕が何か矛盾していることを言っているように聞こえるかもしれない。ところが、僕の中ではこれは矛盾していないのである。
彼女は、前の暴力的な彼と絶縁した後、およそ一年くらいひどい状態に陥ったそうだ。詳細を述べることは控えるが、心身ともに瀕死の状態に陥ったようである。彼と別れて、それだけ悲惨な状態に陥ったということは、彼女がいかに彼を愛していたかというように思われるかもしれない。しかし、僕から見ると、彼との離別後、彼女がそういう状態に陥ったということこそ、取りも直さず、彼女が彼を愛していたのではなかったということを物語っているのである。本当の意味で愛し合っていたのではなかったからこそ、別離によって彼女はその状態を体験したのである。僕は今ではそう捉えている。彼女の話では、彼の方でも、同じような状況を別離後に体験していたようである。僕は、それだけでこの二人の関係が分かるような気がするのである。
僕の言いたいことは次の点である。まず、愛する対象と別離した場合、当然生じる喪失感情や悲哀体験というものがある。僕はこれを否定するものではない。しかし、個の確立を達成した一人の人間として生きる者が、愛する対象を失ったからと言って、自分自身の生を喪失することはないはずである。確立した個まで失うことはないのである。失っても尚、一人の個として生きる方を選ぶはずである。たとえ、悲嘆を体験していたとしても、自身の生を縮小させるような状況には陥らないものである。
従って、別離によってお互いにそのような悲惨な状態に陥ったということは、彼らが愛情関係で結ばれていたのではなく、もっと別種の関係で結合されていたことを示すものである。簡潔に述べれば、彼らが示していることは、お互いに「相手なくしては自分は生きていけない」ということの表現である。これは愛情ではなく、依存や支配の関係であり、しがみつき合い、依り合う関係である。本当の意味での愛でもなければ、成熟した愛でもなかったはずである。僕はそう思う。依り合い、しがみつき合う関係だからこそ、相手を失うと、後は倒れるしかないのである。
僕の受けた印象では、彼女のこの反応は、失恋した女性の反応というよりも、むしろ親に捨てられて、施設に入れられた孤児の反応に近いものである。彼女の示した反応の一つに、手の病気がある。このために彼女は手が使えなくなったのである。これこそまさに「わたしは自分のことを何もできなくなったのです」とか、「誰かわたしの面倒を見て」と表現しているようなものである。幼児期への退行であり、一つの身体転換された「ヒステリー反応」なのである。彼女が身体転換させて症状を発症させたということは、彼女がいかに自分の心を掴みとることが不得手であるかということを示している。彼女は自分の内面に関わることができていないのである。
思わず彼女のことを書いてしまったが、別れても僕が苦しくないのは、失ったのは彼女であっても、僕は僕自身まで失ってはいないからである。むしろ交際していた頃の方が、僕は自己喪失感に悩まされていたくらいである。最近では、日に日に、僕は自分自身を取り戻していっているということを実感している。だから、僕が楽になっていると述べる時、それの意味するところは、僕が自己回復の過程にあるということである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)