12月10日:女性友達に捧げる(4)

12月10日女性友達に捧げる(4)

 

 昨日、彼女に「支配」される感覚だと述べたが、これについて、僕は少し振り返ってみたい。

 彼女と付き合っていると、彼女から好かれたいという思いも強かったためもあるが、僕が僕自身であってはいけないような感覚を覚える。彼女のために、彼女の世界に適合しようという感じである。これはけっこう、僕にとっては苦しかったと今では感じている。彼女に対して、僕が頑固に自己を守り通す時があったのは、僕が自己を喪失してしまいそうな危機感を感じていたからだということが、今では分かっている。彼女に暴力を振るった男たちを僕は許せないのであるが、彼らもまた自分の何かを守り、維持しなければならないという事情があったかもしれないとも僕は思うのである。

 冷静になって彼女とのことを振り返ってみると、彼女のことで見えてくるものもあるのだけど、付き合っている当時は、心理学を勉強している身でありながら、そういうものがまるで見えていなかったのである。僕は彼女のことが分からなくて苦労した。彼女のこと理解しようと、彼女との関係や出来事を日記につけるようになった。ノートの二冊目で、その必要がなくなってしまったのだけど、そういうことをしても、どうしても掴みきれないところが生じた。彼女を理解することがとても難しいと感じていた。どこか捉えどころがないという感じだった。僕は、とても愛されている自分と、滅茶苦茶にないがしろにされている自分とを感じ、僕自身が不安定になっていく。レインの言う「存在論的不安定感」のような状態を体験していた。彼女を理解する以前に、僕自身をしっかりさせなければならなかったのだ。

 僕は若い頃に非常に好きになった女性がいた。寝ても覚めてもその女性のことを考えるというようなことを経験した。しかし、今回、女性友達との間で経験したことは、そういうものとは種類が違っているように感じている。若い頃の、寝ても覚めてもその子のことばかり考えていたという経験には、そこに幸福感がもっと伴っていたのだが、女性友達との間では、苦痛の方がかなり多かった。やはり、寝ても覚めても女性友達のことを考える。それがとても苦しいものになるのである。

 女性友達との関係でそれだけ苦しかったことの要因の一つは、僕から見て、彼女がはっきりしなかったからだ。輪郭のぼやけた相手と付き合っているような、そういう不明瞭感があった。僕は、僕自身が分からなくなっていくような感じを体験したこともあるのだが、これは恐らく、彼女の方が自分をよく分かっていないがために生じたことなのだろうと、僕は理解している。彼女自身もまた不明瞭なのだと僕は思っている。彼女の自我境界が不鮮明なのだろうと思う。そして、交際している僕もまた、この関係において、自分が不明瞭になっていく体験をしていたのだと思う。とにかく、彼女と交際していて、僕自身がよく分からなくなっていくのが、僕には耐えられないほど辛かったのだ。

 彼女と会話していると、僕は自分が何を感じ、何を体験しているのか、何を欲しているのか混乱してしまうことがあった。僕はカウンセリングにおいても、こういうことを体験したことがある。僕にそういう体験をもたらす人がどういう「病理」を抱えている人なのかということを、僕は経験上知っている。ただ、この「病理」に関しては、ここではこれ以上述べない。彼女の「病理」を暴露することが、この文章の目的ではないからである。彼女の不明瞭さに適合しようとすることで、僕は自分が不明瞭になっていったのだと捉えている。どうして、彼女との関係において、僕は僕自身であってはならなかったのか、そういうことも考えていきたいと思う。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

 

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