12月8日(木):素晴らしき人たち
昨日(7日)は穏やかに一日を過ごした。仕事にもある程度集中できているし、その他の作業の方もけっこう捗っている。朝の内だけ、これはブログに書く関係もあるけれど、女性友達のことを回想したりしたが、それ以後は彼女のことを思い出すこともなかった。もっとも、一人のクライアントとの面接において、彼女との関係を活用したのではあるが。そのクライアントの相談を受ける時、僕と彼女との間で経験したことがとても役に立っているからである。
彼女がいなくても全く平気だと思える僕は、やはり冷酷な人間なのだろうかと、今、ふと思った。しかし、そういう自分が冷酷ではないかという感情に陥ってしまうことが、彼女との関係で得たものの名残りでもあるように思う。彼女との間で培った加害者意識の名残りだと、僕は思っている。
僕は僕の人生を追及する。そう決めている。最後の方になると、彼女と彼女の周りの人たちがものすごく幼稚な人たちに、僕からは見えていた。彼らの中に交わるのが僕は嫌に感じていた。彼らが幼稚であっても構わない。彼らはそれで生きていくことが許されているのだから。それが許される境遇が彼らにはあるからである。だから、彼らがそのまま生きても構わないのである。でも、僕は、自分が幼稚な段階に留まることには我慢がならない。僕は成熟の方向を常に目指すことにする。彼らの世界には足を踏み入れないことにする。ただ、それだけのことである。彼らを非難しているわけでもない。
比較すれば、彼らは裕福であり、自分の生活をそれなりに楽しんでおられるようであるが、彼らより不幸な人たち(これは僕が今お会いしているクライアントたちのことである)の方が立派に生きている。僕から見ると、経済的な成功は、何一つ成功と言えるような要素を有していないのである。自分自身を良くしていこうと心がけていく一生に比較すれば、資産の有無など取るに足らない。このような一生を送る人こそ、僕から見れば成功した人である。僕も含めて、クライアントたちはそれに取り組んでいる。だから、彼らよりも素晴らしいのである。
まあ、それは僕の個人的な考えに過ぎないのであり、賛同してもらおうとは思わないし、そんな考えは持つべきではないと強制されたくもないのである。僕は時々、彼らが芽が出ないのがよく分かるという感覚に襲われた。当時は、この感覚は間違ったもので、僕自身、そういう見方をすることは間違っていると思っていた。今では、僕はこの考えが正しいという感覚になっている。先月から継続して来るようになった、まだまだ初期段階のクライアントでも、3回目にして、既に自己の芽が伸び始めてきたのが僕には分かる。それでいいのである。彼らほど恵まれていないけれど、このクライアントの方が成長していくことは間違いないと僕は今からそう実感している。
僕は成熟を目指す人たちが好きなのだ。一つの位置に安住してしまう人は、僕は好きになれない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)